高井保弘の出身高校
高井保弘 プロ野球選手
- 高井保弘卒業高校
- 今治西高校 偏差値 愛媛県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 616位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
高井 保弘(たかい やすひろ、 1945年2月1日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(内野手)。
主に代打で活躍した選手として知られている。愛称は「世界の代打男」。通算代打本塁打27本の世界記録を残した。「自分にとって代打とは何か」という質問に対して「一振りで家族を養う仕事」と答えた。太目の体型から愛称はブーちゃん、ブータン。
娘は宝塚歌劇団73期生の松波美鶴。
今治西高校では1年次の秋から4番打者を任され、右翼を守った。 1962年に夏の甲子園愛媛県予選準決勝に進出するが川之江高校に敗退。甲子園には出場できなかったものの、「四国に高井あり」と評価された。社会人野球の名古屋日産モーター(野球部は後に休部。会社は現在の愛知日産自動車)を経て、1964年に阪急ブレーブスに入団。名古屋時代、高井の打球がグランド左翼後方の民家の屋根瓦を割ることがしばしばあり、阪急の丸尾千年次スカウトから注目されていた。阪急のほかに2球団から誘いを受けていたが、高井はベテランが多い球団なら早くレギュラーに定着できると考え、当時人気が低かった阪急への入団を決意した。
1967年にファームで3割7分の打率を残して首位打者となり、翌1968年には本塁打王と打点王の二冠を獲得する。最終的にファームでは1966年から1970年までの間に首位打者1回、本塁打王2回、打点王2回、最多塁打3回の成績を残した。しかし、監督の西本幸雄は変化球を苦手にする高井を一軍ではあまり起用せず、高井は飛距離をより伸ばすことで西本にアピールした。変化球への対応力の低さに加えて高井の守備力には難があり、彼が守れそうな一塁にはダリル・スペンサーがいたため、守る場所が無い彼は一軍に定着できなかった。1967年から本格的に代打で起用されるようになるが、高井にとっては不本意だった。1967年9月2日の近鉄戦で、高井は板東里視から初めての代打本塁打を放つ。この日の試合は負けに終わるが、引退後の自著では初の代打ホームランについての思い入れの深さを述懐し、当時の新聞記事の切り抜きを大事に保管していることも明かした。
高井は一軍に帯同し始めた頃にスペンサーの姿勢に倣い、試合中常に相手を観察し、気づいたことをメモしておくようになった。結果、相手投手のクセを見抜くことを得意とするようになった。パ・リーグの一軍に籍を置く投手はおろか、公式戦では対戦することのないセ・リーグの投手に関しても、オープン戦で対戦しただけで見抜いたという。これが後の「代打男」としての礎となる。
高井は守備力に難があり、当時のNPBでは指名打者制度が採用されていなかったこともあって、その後も代打での起用が中心であった。1970年からは、試合終盤の要所で代打に起用されることが多くなる。一軍とファームを行き来していたころは見抜いたクセを実戦に応用する機会は少なかったが、一軍に帯同する機会が多くなった1972年ごろから、クセ盗みの有用性に確信を持つようになる。1974年に高井は太平洋クラブライオンズの東尾修から通算14本目の代打本塁打を放ち、中西太、穴吹義雄が保持していた当時の代打本塁打日本記録を塗り替える。同年のオールスターに選出され、第2戦の9回裏・1死1塁の場面に山崎裕之の代打として出場する。松岡弘の投じた2球目をレフトスタンドにはじき返し、オールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を放った。松岡の変化球を投げる際のクセはすでに見抜いており、1死1塁という場面からシュートが投げられると予想していた。高井のオールスター選出はこの年のみ、しかもスイングはホームランを打った時の1回きり(第3戦でも代打で出場したがストレートの四球)であり、代打男の真骨頂と言えるパフォーマンスであった。このホームランを観ていたアメリカ人記者の提唱によって指名打者制度が検討されるようになった。1974年に代打本塁打6本を記録し、当時のシーズン最多代打本塁打数を更新するが、後に大島康徳によって記録を更新される。
1975年8月27日のロッテ戦で金田留広から通算19本目の代打本塁打を放ち、ジェリー・リンチが保持していた当時の通算代打本塁打数の世界記録を更新した。また、1975年からパ・リーグで指名打者が導入されると指名打者として先発出場する機会が増え、1977年から1979年までの3年間には規定打数に到達した。1978年と1979年には2年連続3割を記録し、ベストナインにも選ばれた。1980年からは、再び代打として出場する機会が多くなった。1981年9月3日の西武戦で永射保から生涯3度目の代打サヨナラ本塁打を放ち、これが高井にとって最後の代打本塁打となった。1982年にファーム落ちを宣告され、引退を決意する。1982年8月20日の近鉄戦で、鈴木啓示から選手生活最後の本塁打を放った。「右の高井・左の藤井」の代打陣はパリーグ最強と恐れられた。
引退後はラジオ関西の野球解説者を長く務めた。その他居酒屋経営、次いでスポーツ整体研究所を開いたが、阪神大震災で被災して店舗を失う。その後、52歳で初めての「就活」を行い、ビル管理会社のサラリーマンとして伊勢丹で働き、2011年現在はJR立花駅前の商業ビルで警備員を務めている。
マスターズリーグでは、大阪ロマンズに参加していた。
高井はバットコントロールに長けた巧打者として評価されている。憧れの選手に山内一弘を挙げ、彼のインコースの打ち方を目標にしていた。選手時代の体重は約92kg、173cmの身長、手のひらは18.2cm、足の大きさは25cmと小柄で、身体に大きな負担がかかっていた。高井は指の短さを補うため、グリップが細い特注のバットを使用していた。また、遠心力を利用して打球の飛距離をより伸ばすため、高井のバットはグリップが細いだけでなく長く先が太くなっていた。しかし、特注のバットは高井の手に負担をかけ、軟骨突起(ガングリオン)を引き起こした。右手甲の軟骨突起のほか、両膝の捻挫、椎間板ヘルニア、脇腹痛、両足首痛など、選手時代を通して高井は多くの怪我に悩まされていた。ある時は故障のためにプラスチック製のコルセットを腹に巻き、別の時には手首の保護のためにスキー用の手袋をはめて出場したこともあった。
高井のメモには、投手がセットポジションに入る際の手首の角度、グラブの立ち方、指の広がりが書きとめられていた。高井の研究ノートは球場でのメモ用と、それを試合後に球団別に整理し直した2種類があった。広島東洋カープから阪急に移籍した水谷実雄は自分のベンツと高井のメモの交換を持ちかけたが、高井は提案に応じなかった。
代打を告げられた後、高井はメモに記録した内容を頭の中で整理し、精神を集中するために、あえて遅く歩いてバッターボックスに入った。球審は早くバッターボックスに入るよう目で催促することもあったが、高井は自分のペースを崩さなかった。高井は投手の挙動から投げる球種を予想した後、右目で捕手の動きと位置、左目で投手を見て、球のコースを判断していた。打ちに行く球種の狙いは絞り込まれており、早いカウントから勝負に出た。27本の代打ホームランのうち、最初のストライク球をホームランにしたものが8、その中で初球ホームランは4つを占めている。相手投手に自信を付けさせないため、新聞記者に苦手とする投手について聞かれた時には「一人もいない」と答えていた。
相手投手のクセを見つけるためにはバックネット裏まで行くことが必要だったが、ビジター球場では普段着のジャンパーを着たり帽子を脱ぐなど正体を悟られないような方法を使った。しかし、近鉄の神部年男のクセだけは見抜くことができなかった。また、メモにはただクセを書き連ねるだけでなく、以下のような独自の記号も併用していた。
サヨナラの場面で代打に向かう際、チームメイトに「お前ら、帰る準備しとけや」と豪語、サヨナラ打を決めたこともある。野村克也が「ささやき戦術」で「何(のボール)待ってんのや」と話しかけてきたときには、「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、投球の球種を当てた上に、最後には本塁打した。ダイヤモンドを一周して戻ってきたときに野村が「われ、何でわかんのや」と聞いたが「そんなこと言えまっか、言えまへん」と答えたという。西本幸雄が近鉄の監督時代に会った折、「(江夏の21球の場面に)おまえがウチにおってくれたらなぁ」と言われ、西本の阪急監督時代に使ってもらえなかった高井は「ざまぁ見やがれ」という気持ちになったという。代打での出場が多い高井の年俸はレギュラーメンバーの半分にも届かず、「名前は高井、給料は安い」とヤジを飛ばされたこともあった。
高井は選手生活で19回の犠牲バントを試み、すべて成功させている。うち4回がスクイズであり、1982年9月26日の南海戦では代打スクイズを成功させた。
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