金崎夢生の出身高校
金崎夢生 サッカー選手
- 金崎夢生卒業高校
- 滝川第二高校 偏差値 兵庫県高校偏差値ランキング
- サッカー選手ランキング
- 302位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1989年2月16日生まれ
金崎 夢生(かなざき むう、1989年2月16日 - )は、三重県津市出身のサッカー選手。Jリーグ・鹿島アントラーズ所属。日本代表。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
三重県津市安濃町に生まれる。小学校2年生からフットサルを始め、5年生時には全日本少年フットサル大会で3位に入賞するなど、全国的に知られた選手であった。
サッカーを始めたのは中学校入学後、3年生時には県大会で3位に入賞した。卒業後は滝川第二高等学校へ進学。高円宮杯全日本ユースサッカー選手権では2年生時に3位、3年生時に優勝の成績をおさめた。同期に橘章斗がいる。2007年、大分トリニータに加入。
加入直後の2007年から中盤の全てをこなせる万能型ミッドフィールダーとして期待されていた が、中盤のレギュラーに割って入ることができずポジション獲得はならなかった。しかし、「スーパーサブ」として重用され、新人ながら18試合に出場した。11月には香川真司の代役としてU-18日本代表にも選出され、攻撃陣を牽引した。
2008年には梅崎司が移籍したものの、家長昭博がレンタル移籍で加入し、レギュラーポジションの獲得は厳しいものと思われた。しかし、練習の最中に家長が全治6か月の重傷を負い、その代役としてトップ下のポジションを確保し、リーグ戦全試合に出場した。11月のAFC U-19選手権への日本代表選出も予定されていたが、チーム事情からナビスコカップ決勝優先の判断がされたため選出はされなかった。ナビスコカップではチームを優勝に導き、金崎自身もニューヒーロー賞を獲得した。リーグ戦もチーム最高の4位で終え、これらの活躍を評価されて複数の移籍オファーを受けたが、大分残留を決めた。
2009年1月に日本代表に初選出され、AFCアジアカップ2011予選の対イエメン戦で初出場を記録した。クラブでは開幕前に復帰した家長とレギュラー争いを繰り広げた が、開幕スタメンを勝ち取った。しかし、チームはリーグ戦14連敗を喫する不振に陥りJ2に降格した。金崎はリーグ戦30試合に出場したものの1得点に留まった。J2降格が決定したことに加えてチームが深刻な経営難にあることが発覚し、経営改善のために主力選手の放出に踏み切り、金崎も移籍することを選択した。国内5クラブからオファーを受け、その中から前年もオファーを送っていた名古屋グランパスエイトを選択、12月16日、両チームから完全移籍が発表された。
2010年、背番号は大分でルーキーシーズンにつけていた25に決まった。4-3-3の右ウィングで起用され、開幕戦から得点に絡む活躍を見せた。2012年に名古屋を契約満了で退団。
2013年1月30日、大分時代のチームメイトである清武弘嗣が所属するドイツ・ブンデスリーガの1.FCニュルンベルクと1年半契約を結んだ。ニュルンベルクでの登録名はムウ。しかし、移籍1年目は出場機会に恵まれなかった。2013年6月16日、国立競技場で開催された東日本大震災復興支援 2013Jリーグスペシャルマッチにゲストプレイヤーとして出場し、決勝点を決めた。
2013年9月2日、ニュルンベルクとの契約を解除し、セグンダ・リーガ(ポルトガル2部)のポルティモネンセSCへ移籍。 2013-2014シーズンのセグンダ・リーガで7得点を記録した。
2015年2月9日、鹿島アントラーズへ期限付き移籍した。3月14日のJ1第2節・湘南戦で3年ぶりの復帰ゴールを挙げた。4月3日のJ1第4節・鳥栖戦にて、相手DFの金敏赫に顔面をスパイクで踏みつけられる惨事にあう が、金崎に大事にはいたらなかった。後日、4月9日に鹿島のクラブハウスに訪れた金の謝罪をトニーニョ・セレーゾ監督とともに受け入れた。同チームの石井監督就任後は1トップでも2トップでもFWとしての起用が多くなっている。10月31日、ナビスコカップ決勝のガンバ大阪戦では2トップの一角に入り、1得点をあげるなど存在感を見せて優勝に貢献した。
11月5日、クラブでの活躍が認められ、約5年ぶりの日本代表に選出。代表通算6試合目となる同月12日の2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選のシンガポール戦にて、1トップ(センターFW)の位置でスタメン起用されフルタイム出場し、代表初得点を決めた。
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