近藤真市の出身高校

近藤真市 プロ野球選手

近藤真市卒業高校
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性別
男性
生年月日
1968年9月8日生まれ

近藤 真市(こんどう しんいち、1968年9月8日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。プロ野球史上初の初登板ノーヒットノーランを記録。本名及び1992年までの登録名は近藤 真一(読み同じ)。同じく中日ドラゴンズに所属する育成選手の近藤弘基外野手は、実子。

現在は中日ドラゴンズの投手コーチ。

1971年に父が他界。一宮市立南部中学校卒業後、享栄高校で長谷部裕とバッテリーを組み、1986年には春、夏連続で甲子園大会に出場。140km/h台中盤から後半の直球と大きく縦に割れるカーブ、さらに高校生離れした風貌と貫禄で10年に一人の逸材と注目を浴びる。同年のドラフト会議で5球団が1位指名で競合し、抽選の結果中日ドラゴンズが交渉権を獲得した。12月4日に契約金6500万円、年俸400万円(金額は推定)で入団合意した。入団時の背番号は13。

プロ1年目の1987年8月9日の対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)で先発登板し、無安打無失点(四球2、失策1)に抑え、プロ野球史上初の快挙となる初登板ノーヒットノーランを達成した(プロ初勝利での達成としては外木場義郎に次いで2人目)。続く2試合にも勝利し、8月の月間MVPを受賞。18歳11か月での月間MVPは史上最年少記録(当時)。同年は4勝(3完封)5敗。強烈なインパクトを残したデビュー戦はもとより、力のある直球とカーブを巧みにコントロールするマウンドさばきはファンの人気を博し、同年の第38回NHK紅白歌合戦の審査員にも選ばれた。

1988年から背番号を「1」に変更。先発の柱としてオールスターゲームまでに7勝を挙げるが、この頃から肩や肘の故障に悩まされ始め、オールスターゲーム後は1勝に終わった。左肩を故障した当初は自覚症状が無く、練習を見ていたコーチに球速の低下を指摘されて初めて故障による身体の異変に気づいたという。高校時代から上半身の力に頼るフォームで肩肘に負担がかかると懸念されていたが、プロ入り後も下半身とのバランスの悪さはなかなか解消されず、何度かフォームを変えている。

1989年に左肩を手術し1990年に復活登板を果たしたが、1991年のオフには左ヒジのトミー・ジョン手術を行った。1989年以降は勝利を挙げることができず、1994年には打者転向を打診され星野に相談。「誰にもできない記録を作ったんだ。投手近藤で終わるのがいい」との言葉を受け現役を引退した。

1995年からは中日の打撃投手兼スコアラーを務め、1996年からスカウトに転身し岩瀬仁紀らの入団に貢献した。岩瀬は近藤がかつてつけていた背番号13を受け継いでいる。2003年からは投手コーチを務める。2003年は一軍投手コーチ、2004年は当初は二軍投手コーチだったが、シーズン途中から鈴木孝政と入れ替わりで一軍投手コーチに昇格した。ブルペン担当として、2011年までヘッドコーチを務めた森繁和や2012年に投手コーチを務めた権藤博からは絶大の信頼を得ていた。2013年からは退団した権藤博投手コーチに代わり、ベンチ担当を務めていたが、チームの不振に伴い、6月12日の対埼玉西武ライオンズ戦から今中慎二と入れ替わりでブルペン担当に復帰した。2003年から2015年までドラゴンズの首脳陣が一新される中 唯一、コーチとしてドラゴンズに所属している。

近藤はプロ入りして一軍での初登板となった1987年8月7日のナゴヤ球場での対読売ジャイアンツ戦において、日本プロ野球史上初の「プロ入り初登板ノーヒットノーラン」の快挙を達成する。

ルーキーの近藤が先発になった事情は、巨人戦に執念を見せる中日監督の星野仙一が前日までに投手を使いすぎ、7日に登板させる予定だった江本晃一も登板させてしまい、7日に投げる投手がいなくなったと困り果てた投手コーチの池田英俊に対し、星野が「若いヤツがおるやろ」として、近藤の登板を決めたとされる。

近藤が首脳陣から先発を告げられたのは、試合開始直前、練習の終わった16時のことで、それまではチームメイトに冗談で「先発もあるかも」と言われて、近藤も「まさか」と答えていたが、告げられて「ハイ」と答えたという。既に先発を決めていた星野は球場に着くなり「今日は真一だったりしてな」と記者に言っているが、これを受けて対戦相手の巨人監督の王貞治は「いくら星野でもそこまではできないだろう」と答えたとされ、これを聞いた星野は「しめしめ」と思ったとされる。

18時20分、試合開始。先頭打者駒田徳広は144キロのボール球となり、それを駒田がファールにして「緊張がとれた」とし、カーブと速球で駒田を三球三振に仕留めている。1回裏落合博満の3ラン本塁打がでて3点先制。3回表、前日本塁打を打っていた山倉和博にこの日巨人初めての出塁となる四球を出すが崩れず抑えている。

5回終了時にチームメイトの石井昭男に「今日はヒット打たれてない」と言われて「やってやろう」と覚悟を決めたとしている。石井は近藤の向こう気が強い性格を知っていたから、あえて近藤に言ったとされる。7回表、仁村徹の失策から一死一塁で四番原辰徳を迎えてこの試合最大のピンチとなったが、カウント1ストライク2ボールからキャッチャーのストレートの要求に近藤は3度首を振りストレートを投げ、その後、原を空振り三振に仕留めている。

9回表、二人をいずれも三塁ゴロに打ち取って二死にしたところで、この日30人目の打者となる篠塚利夫を迎える。2ストライク1ボールとして外角いっぱいのカーブが決まり、見逃し三振に抑えて試合終了。思わずガッツポーズが出たと近藤は述べている。スコアは6対0、試合時間、2時間33分だった。

この試合を、近藤の母親がナゴヤ球場で観戦しているが、近藤の母親は、試合当日に放送されたCBCのサンデードラゴンズ内で久野誠が「先発がいないから近藤もあるかも」と言ったのを観て息子が登板するものと思い込み、急遽関係者に試合のチケットの手配を頼んだ。試合当日の巨人戦のチケットの入手は困難とされたが、偶然総合コーチの木俣達彦のチケットがキャンセルになった事から、球場での観戦が実現したものである。

近藤は「あれ(ノーヒットノーラン)がなければもう少し投げられたのでは」とよく言われると述べ、「でもあれがあるから覚えていて貰える」と答えている。この試合前のキャッチボールでは「体がぐーっと引っ張られた、誰かが引っ張っている感じ」になったとされ「それが理想の「タメ」になった」と答え、「あの感覚を探し続けた野球人生だった」と述べている。

なお、同じ左腕投手であり、彼の3年前に入団した山本昌広は、当時は一向に芽が出ていなかったため、近藤のノーヒットノーランをテレビで見届けた後、「もうこれで俺は首になるだろう」と思い込み、悔しさともどかしさでその夜は一睡も出来なかったと語っている。

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