辛坊治郎の出身高校
辛坊治郎 アナウンサー
- 辛坊治郎卒業高校
- 埼玉県立川越高校 偏差値 埼玉県高校偏差値ランキング
- アナウンサーランキング
- 698位 / 1802人中 アナウンサー別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1956年4月11日生まれ
- 血液型
- AB型
辛坊 治郎(しんぼう じろう、1956年4月11日 - )は、日本のニュースキャスター、シンクタンク経営者である。読売テレビ(YTV)アナウンサー→理事・報道局解説委員長(局長待遇)などを経て、株式会社大阪綜合研究所代表を務める。また、読売テレビ時代より芦屋大学客員教授も務める。読売テレビ時代には、情報番組のプロデューサーを務めた事もある。
住友ファイナンスエイシア社長を務めた辛坊正記は兄。
男2人兄弟の二男として鳥取県米子市で生まれた。7歳年上の兄(辛坊正記)がいる。しかし、鳥取での生活はわずか2ヶ月だったため全く記憶にないという。小学校入学前までは、自衛隊員だった父親の転勤に伴って全国を転々とし、物心がついたころから大学時代までは埼玉県入間市で過ごした。なお、辛坊家のルーツは大阪府岸和田市にあり、出身地を岸和田(大阪)としているプロフィールも見られる。
入間市立豊岡中学校時代にテレビでメキシコ映画『ぼくの心はバイオリン』を見ていた時、停電になったためラスト15分が見えなくなり、放送していたTBSに結果を電話で聞いたところ、親切に教えてもらったことに感激し、将来は放送局で働こうと決めた。 フリーアナウンサー、ニュースキャスターの小宮悦子は同中学校の2年後輩にあたる。
埼玉県立川越高等学校では航空部と英語部に所属。東大文科1類進学を目指すも果たせず、1浪の後早稲田大学法学部に進学した。高校の同期には、ルポライターで作家の本橋信宏がいた。
大学3年時に司法試験を受けるが不合格。その後、夏休みを挟んだ3ヶ月間、西ヨーロッパ・モロッコ・トルコなどを旅した。4年次の就職活動で埼玉県庁の上級職試験に合格し、住友商事の内定も受けた。ある日、大学の就職部の掲示板でフジテレビのリポーター・司会者(アナウンサー)募集のチラシを見て、受けるだけで1000円もらえたことから受けたところ、受験者1300人の中から7次試験の最終面接3名まで残った。フジテレビの入社試験は担当希望の番組を訊かれた際に「リビング11(お昼の通販番組)を担当したい」と答えてしまい落ちたが、12月に大阪の読売テレビから突然電話があり、「フジテレビの最終で落ちたそうだが良かったら弊社を受けてみないか」と誘われたため、読売テレビを受け合格。埼玉県の上級職・住友商事・読売テレビの3つ選択肢があったが、読売テレビに決めた。本人は、自身の講演会で「始業時間が朝10時と一番遅かったから」と冗談を飛ばしている。
大学卒業後の1980年(昭和55年)、YTVにアナウンサーとして入社。『ズームイン!!朝!』の大阪キャスターを8年担当。スポーツコーナーで、森たけしと共に阪神タイガースの不振をぼやいた台詞「なんぎやなぁ」では、1987年(昭和62年)新語・流行語大賞流行語部門の銀賞を受賞する。1989年(平成元年)には、森たけしと歌った阪神タイガース応援歌『負ける気せんね』をリリースした。
1985年8月、東京へ出張して『ズームイン!!朝!』にて夏季休暇で不在だった徳光和夫の代理キャスターを務めていた週の8月12日に日本航空123便墜落事故が発生した為、日本テレビマイスタから日航機事故関連情報をお茶の間に伝えた。
1990年(平成2年)4月より夕方のローカルニュース『ニューススクランブル』のキャスターとして活躍する傍ら、1991年(平成3年)1月から1992年(平成4年)3月まで『ウェークアップ!』の司会を務めた。
1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災関連のニュースも担当した。当時YTVでは、2日間(48時間)にわたって震災の報道特番を行ったが辛坊は、48時間にわたりYTVのスタジオでキャスターを務めた。
1997年(平成9年)から報道局解説委員となり、同年1997年(平成9年)7月から1998年(平成10年)7月までの1年間は、ペース大学研究員としてニューヨークに駐在、アメリカのメディア事情を研究した。
帰国後は報道部チーフプロデューサーへ就任し同職と並行する形で、『報道特捜プロジェクト』のキャスターや、関西ローカルの『元気モンTV』『あさイチ!』ではコメンテーターなどを担当。2000年(平成12年)には報道局情報番組部長に就任し、初の著書で前述のメディア事情をまとめた「TVメディアの興亡」を刊行。
『元気モンTV』『あさイチ!』ではチーフプロデューサーを兼任しながら出演し、中元綾子(当時)をメインキャスターに据えたことや、辛坊自身の「日本一よく分かるニュース解説」のコーナーが人気となり、同時間帯視聴率トップにするなどの実績をあげた。
2001年(平成13年)10月から日本テレビ『ズームイン!!SUPER』開始に伴い、新聞ニュース解説(兼サブ司会)に起用されたことから、東京での単身赴任生活を始めた。2003年(平成15年)7月からはそれまで特番だった『たかじんのそこまで言って委員会』がレギュラー昇格となり、やしきたかじんとともに司会を担当、毎週(現在は隔週)金曜日午後にYTV本社第1スタジオでの収録のため帰阪していた。さらに2005年(平成17年)4月からは桂文珍に代わって同局の報道番組『ウェークアップ!』の後番組の『ウェークアップ!ぷらす』の司会を担当。その影響で『ズームイン!!SUPER』の月・火は当時多摩大学助教授の野田稔(後に読売新聞特別編集委員の橋本五郎)となり、出演は水・木・金の出演に短縮となり、2009年(平成21年)4月からYTV本社で『SUPER SURPRISE』(金曜日は「たかじんのそこまで言って委員会」もしくは「SUPER SURPRISE なるほドットJAPAN」の収録)に出演することになったため、ズームインは水・木出演(金曜日は日本テレビ解説委員の畑山篤に変更)とさらに短縮されたが、2010年(平成22年)3月26日の放送をもって降板した。ズームイン出演の後期は、大阪にいることが多くなったことから東京滞在中はホテル暮らしの生活を送っていた。本人の話では早朝からズームインで大阪に移動して夜7時から生番組(当時)で16時間以上勤務しているとコメントしていた。
その間、2004年(平成16年)より、芦屋大学客員教授を務める。
2009年(平成21年)10月1日付けで岩田公雄の後任としてYTV報道局解説委員長に昇格した。
2010年(平成22年)3月29日から、かつて『ズームイン!!朝!』や『あさイチ!』で共演した森と共に平日早朝のローカル情報番組『朝生ワイド す・またん!』のキャスターへ就任、8年半ぶりに読売テレビの早朝番組のメインキャスターとして復帰すると同時に、週6本の生放送に出演することになった。4月に実兄との共著「日本経済の真実―ある日、この国は破産します」を出版し、28万部のベストセラーとなった。
2010年(平成22年)8月、翌月末をもってYTVを退職し、10月よりシンクタンクの研究員になる旨が報道され、自身がキャスターを務める「朝生ワイド す・またん!」にて記事を取り上げ本人からも公表された。2010年(平成22年)9月30日をもって退職。退職後は自身が設立したシンクタンクである大阪綜合研究所へ移籍。退職後も番組出演を続けている。
2013年6月、全盲のヨットマンだった岩本光弘をサポートする形で福島県いわき市の小名浜港をスタートし、8月にアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンディエゴでゴールをする予定であった。ヨットは間寛平がアースマラソンのときに使ったヨット・エオラス号を使用する。企画・発案はアースマラソンのサポートスタッフでもあった比企啓之。6月21日にクジラと思われる生物と衝突して、ヨットが浸水し、同日7時45分に118番通報したその後10時間近く救難艇で漂流したのち、同日18時14分に海上自衛隊のUS-2(救難飛行艇)に救助された。
メディア研究の経験などから、芦屋大学客員教授や関西学院大学非常勤講師(東京に単身赴任前まで)、読売テレビ寄講講義(俗にいう「冠講座」)として、立命館大学客員講師を務め、臨時で母校の早稲田大学でも講師を務めた経験もある。また、レギュラー番組の合間に、メディアや報道の裏側を題材とした講演なども行っている。
その他、マリンジャーナリスト会議から「2014年MJCマリン賞スポーツ/アドベンチャー部門」に岩本とともに選ばれている。以前の遭難後、海難救助のボランティア組織を応援するために青い羽根募金に協力している。NNN系列アナウンサーの最高賞であるNNSアナウンス賞の最優秀賞を受賞している。
2012年(平成24年)12月19日に大阪市内の病院で、十二指腸の腫瘍(後に初期の十二指腸癌と判明)を摘出する手術を行った。病院には前日18日に入院したが、手術当日も「す・またん!」に病院から直行して通常とおり出演し、「私、病院からやってきました。今日(19日)手術なんだよ。テレビ出て解説してる場合じゃないだろ」と明るい調子で司会進行していた。手術は無事成功したが、大事を取ってその週のレギュラー番組への出演を見合わせ、翌週に完全復帰した。らしいです
※…YTV時代からの出演番組。
※…YTV退社後も出演。
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