財前宣之の出身高校
財前宣之 サッカー選手
- 財前宣之卒業高校
- 東京実業高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- サッカー選手ランキング
- 1711位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1976年10月19日生まれ
財前 宣之(ざいぜん のぶゆき、1976年10月19日 - )は、北海道出身の元プロサッカー選手・サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。実兄は元サッカー選手の財前恵一。
中田英寿も認めた才能の持ち主(運動量なら中田、パスセンスなら財前と言われていた)だったが、度重なる膝の怪我に苦しんだ(靭帯断裂を3度)。戸塚哲也、菊原志郎、山口貴之と続く「ヨミウリ天才少年」の系譜を受け継ぐ。1993年のU-17世界選手権U-17日本代表のチームメイトからは中田を含め4人が後の日本代表に選出されたが、彼らはまず如何にして財前に認められるかを考えていたという。
中学時代から読売ユースに所属。読売への入団テストでは、当時の小見幸隆コーチをして「ボールをもった瞬間に合格」と言わしめ、サッカーファンは「まだ見ぬ財前」に期待を高めた。高校時代は東京実業高校に通いながら読売ユースに所属し、1993年のU-17世界選手権ではU-17日本代表の中心選手として、リーグ戦三試合全てでマンオブザマッチを獲得しベスト8進出に貢献、大会ベストイレブンにも選出される。
1995年にヴェルディ川崎のトップチームに昇格し、直後にイタリア、セリエAの名門SSラツィオへと留学。ラツィオではプリマヴェーラ(ユース)所属だったが、トップチームの紅白戦にも出場した。また、アジアから唯一世界選抜チームに選出され出場した。
1996年にスペイン1部リーグ、リーガ・エスパニョーラのログロニェスに移籍。監督にもその実力を認められていたが(当時チームは下位に低迷していたが、監督に「うちには財前がいる。彼の怪我が治れば大丈夫」と言わしめていた)、リーグ戦への出場を前にして、靭帯断裂のため帰国を余儀なくされる(もし怪我がなければスペイン1部リーグ初の日本人選手となっていた可能性が高い)。
帰国から約1年後にV川崎にて公式戦初出場。クロアチア1部リーグ、1.HNLのリエカを経て、清水秀彦監督の誘いに応じて1999年にベガルタ仙台入団。ここでクラブの中心選手として存在感を発揮。2001年J2最終戦、京都パープルサンガ戦で試合終了直前にチームを初のJ1昇格に導く決勝ゴールを挙げた。
2005年シーズン終了後、仙台から戦力外通告を受け退団。翌2006年からは同じ東北をホームとするモンテディオ山形に移籍し、4年間プレーしたが2009年に戦力外通告を受け、同年シーズン終了を以って退団。
2009年のシーズン終了直後にタイ・プレミアリーグに所属するムアントン・ユナイテッドFCから獲得を前提とした練習参加のオファーが届いた。財前はすぐにタイへ飛び、プレ・シーズンマッチにもトップ下で出場し存在感を発揮、ムアントン・ユナイテッドへの正式加入が決まった。
2011年シーズンより同リーグに所属するBECテロ・サーサナFCへ移籍した。
2012年1月19日、本人のブログ上で現役引退が発表され、引退後は仙台のサッカースクール指導や中学生以下のスカウトを担当している。
仙台時代の応援歌の原曲はゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』、山形での応援歌の原曲はGOING STEADYの『愛しておくれ』だった。
上記のプレースタイルから1993年のU-17世界選手権で背番号10を背負っていた財前は、Jリーグでは仙台移籍2年目の2000年に初めて10番を背負い、以後チームの顔として2005年まで背負い続けた。Jリーグが1997年の固定背番号制を導入以後、同一チームで10番を背負う期間は澤登正朗(清水エスパルス・1997年-2005年)、藤田俊哉(ジュビロ磐田・1997年-2003年8月、2004年-2005年6月…FCユトレヒト移籍中は空き番)に次いで長かった。
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