西村眞悟の出身高校
西村眞悟 議員
- 西村眞悟卒業高校
- 大阪教育大学附属高校天王寺校舎 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
- 議員ランキング
- 104位 / 885人中 議員別偏差値ランキング
- 生年月日
- 1948年(昭和23年)7月7日生まれ
西村 眞悟(にしむら しんご、1948年(昭和23年)7月7日 ‐ )は、次世代の党所属の日本の政治家。前衆議院議員(6期)、元弁護士(大阪弁護士会)。
防衛政務次官、日本維新の会比例近畿ブロック支部長、太陽の党代表などを歴任した。氏名表記は一般に新字体の「真悟」が用いられている。
実父は元衆議院議員西村栄一(民社党第二代委員長)。従兄弟は元衆議院議員西村章三。岳父は元衆議院議員岡澤完治。
1948年7月7日 、西村栄一の四男として大阪府堺市に生まれた。母・秀子は音楽家東儀哲三郎の二女。一家は、堺市上野芝向ヶ丘町という丘の上の田舎の住宅街に住んでいた。西村が生まれたときには、家に長兄夫婦、姉、章三(のち衆議院議員)、勇三がいた。章三は、戦前戦後の混乱期に母子家庭となっていた生家から栄一のもとに来た。
大阪学芸大学付属天王寺中学校(現大阪教育大学附属天王寺中学校)、大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎を経て一浪後京都大学法学部に入学。
大学には8年在学した。22歳の時、父・栄一が死去。西村によると「なにしろ、父親が亡くなったうえは、奮起して生活路線を築くというのが大学卒業を控えた息子の通常の姿ではないか。しかし、僕はその反対をころがりはじめた。大学は卒業するどころか、八年も在学してしまった。裏表といえば聞こえはいいが、僕の場合は裏裏だった。八年で大学を放り出されるのが判っていても、将来の進路が定まらない。それでおふくろは、あるとき、突然僕にこう言った“明日、職安へいけ”と…」。
1976年京都大学法学部卒業。
国と地方の公務員試験を数個受け合格したが、日本から独立してもやっていけそうな神戸市に就職した。神戸市には三年勤めて退職した。神戸市を退職したときの夕食後の家での会話は「ご飯を食べている最中に言えば食い物が喉に通らないので、食べ終わったから言うが、俺は今日神戸を退職してきた。明日からは給料はない」だった。
1982年34歳で司法試験に合格した。一年前に結婚して既に子もあった。37期司法修習生となる(同期に稲田朋美がいる)。1985年、弁護士登録。
弁護士になって四年後、数か月イギリスで暮らしたくなり、その間の生活費を稼いで家にいれ、1987年12月に日本をあとにした。ロンドンとケンブリッジの中間のサフロン・ウオルデンという小さな田舎町に下宿して勉強をしている時、母に「俺は、政治家になり、偉大になる」と手紙を書いた。母からの手紙には「私は、幸せだ」と書いてあった。
この後政界入りするまでに連合大阪顧問弁護士を経験する。
1992年7月、第16回参議院議員通常選挙の大阪府選挙区に連合の会公認、社会党・民社党・社民連推薦で出馬し、落選。
1993年7月、第40回衆議院議員総選挙の旧大阪5区に民社党公認・新生党推薦で出馬し初当選。
1994年12月、民社党解党。新進党結成に参加。同党初代党首選では民社党委員長・米沢隆の推薦人となるも、米沢は落選。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙の大阪17区に新進党公認で出馬し当選(2期目)。
1997年12月、新進党解党。翌1998年1月、小沢一郎を党首とする自由党結成に参加。
1999年10月5日、小渕内閣第2次改造内閣の防衛政務次官に就任(同月20日辞任)。
2000年6月、第42回衆議院議員総選挙の大阪17区に自由党公認で出馬し小選挙区では敗れるも比例近畿ブロックで復活当選(3期目)。
2003年9月、自由党解党。民由合併で民主党に合流。同年11月、第43回衆議院議員総選挙の大阪17区に民主党公認で出馬し当選(4期目)。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙の大阪17区に民主党公認で出馬し小選挙区では敗れるも比例復活で当選(5期目)。11月28日、弁護士法違反で逮捕される。
民主党に離党届を提出したが、党の臨時役員会は受理せずに除籍処分とした上で、西村への議員辞職勧告を決定した。11月29日、民主党が除籍処分を常任幹事会で決定。
西村は「(北朝鮮による)拉致被害者救出のために議席を維持しなければならない」として、議員辞職を拒否したが、翌2006年3月18日、衆議院本会議で辞職勧告決議を受ける。
2007年9月25日、大阪地裁に於いて、弁護士法違反(弁護士の名義貸し)として懲役2年・執行猶予5年の判決。組織犯罪処罰法(犯罪収益収受)に関しては無罪。検察側、弁護側ともに控訴しなかったため確定し、同法第7条(欠格事項)に基づき資格剥奪。
2008年9月24日、改革クラブへ参加し、同クラブの衆議院代表に就任。西村の参加により改革クラブは所属議員が衆参合わせて5名となり、政党助成法に基づく政党要件を満たした。内閣総理大臣指名選挙では他の改革クラブ国会議員と同じ麻生太郎ではなく平沼赳夫を支持した(前年は民主党代表の小沢一郎を支持、前々年は自由民主党総裁の安倍晋三を支持)。
2009年8月、第45回衆議院議員総選挙の大阪17区に改革クラブ公認で出馬するが、小選挙区・比例区ともに落選。
2010年7月9日、眞悟の時事通信にて「たちあがれ日本の運動員」という言葉を使い、たちあがれ日本に参加したことを明かした。後にたちあがれ日本に入党、同党の大阪17区支部長となる。
2012年9月、弁護士法違反事件の執行猶予が満了。12月17日、第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会公認で比例近畿ブロック単独候補として出馬。衆議院議員として、政界に返り咲く。
2013年5月17日、維新の会の会合において「日本には韓国人の売春婦がうようよいる。反撃に転じた方がよい。」、「大阪の繁華街で『おまえ、韓国人慰安婦やろ』と言ってやったらいい。」などと発言したことに関して、その場にいた党員から問題視されて撤回を要求されたため、その場で発言を撤回した上、同日中に維新の会へ離党届を提出した。なお、維新の会の幹事長である松井一郎(大阪府知事)は除籍する方針を示し、議員辞職も求めると述べた。同年5月18日、党から除名された。
2014年9月25日より太陽の党代表。
2014年11月26日、次世代の党は、太陽の党代表の西村を第47回衆議院議員総選挙大阪16区の公認候補として擁立すると発表した。西村は太陽の党を離党した。第47回衆議院議員総選挙は同年12月14日に実施されたが、小選挙区で公明党の北側一雄に敗れ、比例復活もならず落選した。
週刊プレイボーイ1999年11月2日号で「核とは『抑止力』なんですよ。強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔になってるやん。けど、罰の抑止力があるからそうならない」、「国防とは『我々の愛すべき大和撫子が他国の男に強姦されることを防ぐこと』」と発言した。この発言が問題視され防衛政務次官を辞任した。直後の週刊新潮11月4日号に手記「私の『防衛論』どこがケシカランのか」を寄稿し、「なぜ、あんな現象が起こってしまったのか、それは今考えてもわかりません」、「あなたのガールフレンド、母親、妹が『民族浄化』される。それを防ぐために国防が必要なのだ」、「私は国防を大切にし、女性を大切にする体制を作るべきだと言っているのですよ。それがなぜ蔑視なのか」と反論した。その後、これらの発言に対して『日本の戦争責任資料センター』が抗議声明を出した。
辻元清美に対し「乳デカイなぁ」と発言した。女性記者にも「パンツ見えてるで」と発言した。
橋下徹の慰安婦発言に関連し2013年5月17日の党代議士会で、「日本には韓国人の売春婦がうようよいる。大阪の繁華街で韓国人に『おまえ、慰安婦やろ』と言ってやったらいい。」「外電では橋下氏の報道が捏造され始めている。慰安婦がセックススレイブと転換されている。これが広がれば反日暴動、謀略が成功しかねない。反撃に転じた方が良い。」と発言、直後に取り消し謝罪した。ただし、維新の会の幹事長である松井一郎が議員辞職を求めたことに関しては、「私は、断じて議員を辞職しない。いや、辞職してはならないのだ。」、「私は、祖国日本に対する愛と忠誠の故に、断じて議員辞職できない。千万人が来ても、辞職しない。」と述べている。
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