葛西稔の出身高校
葛西稔 プロ野球選手
- 葛西稔卒業高校
- 東北高校 偏差値 宮城県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 2098位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1967年5月5日生まれ
葛西 稔(かさい みのる、1967年5月5日 - )は、青森県弘前市出身の元プロ野球選手(投手)・野球指導者。現:阪神タイガーススカウト。
弘前市立城西小学校時代に軟式野球の全国大会へ出場し、チームとしてベスト4の成績を残す。その後、弘前市立第二中学校(弘前二中)を経て、宮城県の東北高等学校へ進む。
東北高校では佐々木主浩の控え投手兼一塁手及び三塁手として活躍、2年次の秋季東北大会では不調の佐々木に代わり主戦投手として準優勝、春の選抜高校野球大会出場の原動力となる。3年次には主に6番・一塁手として夏の甲子園でチームをベスト8に導く。高校時代の甲子園登板は2回戦の佐賀県立佐賀商業高等学校戦で9回に佐々木の後を受け登板した1試合のみ。なお、この試合で前打者の中前適時打が走者の三塁ベース踏み忘れでフイになったが、その後の佐々木が死球で満塁となり、その次の葛西が走者一掃の二塁打を放っている。県大会は4番をつとめたが、甲子園では佐々木に4番を譲り、自分は6番打者だった。
その後、法政大学へ進み、アンダースローに転向。2度のベストナインに輝き、東京六大学通算18勝7敗の成績を残し、エースとしてリーグ4連覇に貢献。3年次の第37回大学選手権一回戦・対近畿大学工学部(広島六大学)戦では史上4人目となるノーヒットノーランを達成。第17、18回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、特に17回大会では0勝1敗ながらも最高殊勲選手に選ばれる大活躍を見せた。ちなみに、六大学では打者として初打席初本塁打も記録している。
史上空前の大豊作ドラフトと言われた1989年のドラフト会議では野茂英雄の外れ1位で阪神に入団。即戦力と期待されたが、入団当初は足に故障を抱えていたため活躍ができず、同年他球団にドラフト1位入団した野茂(近鉄)、西村龍次(ヤクルト)、与田剛(中日)、佐々岡真司(広島)、潮崎哲也(西武)、小宮山悟(ロッテ)、酒井光次郎(日本ハム)がルーキーイヤーからチームの中心選手として活躍をしたことと対照的な状態であった。
1991年は先発として活躍、特に対ヤクルト戦では5連勝を飾り、「ツバメキラー」と呼ばれる。翌1992年のヤクルトとの開幕戦では実績を買われ開幕投手に抜擢された。しかし、次第に打ち込まれるシーンが目立つようになり、先発失格の烙印を押され、リリーフに転向。1996年にはリーグ最多の63試合に登板するなど、以降は強力な阪神リリーフ陣の1人として伊藤敦規、遠山奬志、弓長起浩らとともに活躍。
特に野村克也が監督だった2000年には、5月21日の対横浜戦には一塁を守り、同い年の左横手投げ投手・遠山と交互に登板する変則的なワンポイント継投が行われた。この継投は「野村スペシャル」「遠山・葛西スペシャル」「勝利の連立方程式」「遠山・葛西・遠山・葛西」などと呼ばれ、カルビープロ野球カードや月刊タイガースの表紙にも遠山と2人1組で起用された。同一試合で2人の選手が2度登板するのは2リーグ制以降では21年ぶり2度目だった(1979年8月19日の中日戦で阪神の山本和行(投→右→投)と池内豊(投→左→投)が記録)。この日以降、この変則継投はしばしば行われることとなった。
2002年には投手コーチ(一軍ブルペン担当)を兼任するも、試合には登板せずに実質コーチとして働き、同年、伊藤、遠山らとともに引退。
2003年以降は二軍投手コーチとして、コーチ業に専念する(ちなみに2005年から遠山も二軍投手コーチとして復帰し、再びタッグを組むこととなった)。2003年、当時同じ二軍投手コーチであった山口高志の助言を受けた藤川球児のフォーム改造の指導にあたり、後の藤川の成長のきっかけを作った事でも知られる。
2009年からスカウトへ転任。2012年より東北・北海道地区を担当。兵庫県から弘前に転居し活動している。
現役時代の1997年2月6日、西宮市立中央病院に入院していた次男(当時8ヶ月)が死亡した。この死亡を医療ミスが原因とし、コーチ時代の2005年、妻とともに西宮市を相手に訴訟を起こした。2005年3月30日、大阪高裁は請求を棄却した一審神戸地裁尼崎支部判決を変更し、西宮市と医師2人に計約5200万円の支払いを命じた(その後、最高裁が西宮市側の上告を棄却したため、判決が確定)。
※2000年は前述の投手リレーにより一塁手として5試合出場
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