萩原朔太郎の出身高校
萩原朔太郎 俳人
- 萩原朔太郎卒業高校
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- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1886年(明治19年)11月1日生まれ
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。
群馬県東群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。1893年(明治26年)に群馬県師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。
師範学校附属小学校高等科を卒業後、1900年(明治33年)に旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学。この時代に従兄弟萩原栄次に短歌のことを教わる。校友会誌に『ひと夜えにし』と題してはじめて短歌五首を発表。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。作品には与謝野晶子の影響が見られ、1903年(明治36年)に与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に「新詩社」の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた。結局、中学で落第。
1907年(明治40年)9月熊本にある第五高等学校第一部乙類(英語文科)に浪人して入学するが翌年7月落第し、1908年(明治41年)9月、岡山にある第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。試験を受けないため教師の間で問題となり、翌年7月落第。1910年(明治43年)、六高に籍を残しつつ慶應義塾大学予科了組に入学するも直後に退学。同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し5月、六高を退学する。翌年、慶大予科に再入学する。比留間賢八についてマンドリンを習い音楽会やオペラを楽しむが、精神的苦悩に悩まされ、同年11月、慶大予科を中途退学。慶大への入退学が重なっているのは奇妙だが、これは旧制第六高等学校の教授が朔太郎の父・密蔵に手紙を寄せ、「朔太郎の学業に将来の望みなし」と諭告したことに関連する。
1913年(大正2年)に北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発し、そこで室生犀星と知り合い、室生とは生涯の友となる。1914年(大正3年)に東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする。6月に室生犀星が前橋を訪れ、そこで山村暮鳥と3人で詩・宗教・音楽の研究を目的とする「人魚詩社」を設立。1915年(大正4年)には詩誌『卓上噴水』を創刊。「ゴンドラ洋楽会」を組織してマンドリンやギターを教授して前橋や高崎で演奏会を開催する。またこのころから教会に出入りし、神や信仰、罪などの問題に悩み始める。
1916年(大正5年)春頃から自宅で毎週一回の「詩と音楽の研究会」を開き、6月に室生犀星との2人雑誌『感情』を創刊。高度に成熟した散文詩や評論を発表し始め、1917年(大正6年)32歳で、第一詩集『月に吠える』を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。内容・形式共に従来の詩の概念を破り、口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。森鴎外の絶賛を受けるなど、一躍詩壇の寵児となり、5月『文章世界』誌上において神秘主義・象徴主義論のきっかけをつくる論文を発表。
1918年(大正7年)『感情』に詩3編を発表したのち、前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催し、前橋在住の詩人歌人たちと「文芸座談会」を設ける。1919年(大正8年)5月、上田稲子と結婚。6月、若山牧水来訪。詩人団体「詩話会」の委員となり、機関紙『日本詩人』の創刊と共にアフォリズム風の文章を初めて発表し始める。1922年(大正11年)に『新しき欲情』を刊行。『短歌雑誌』に発表した「現歌壇への公開状」をきっかけに歌壇人と論争になり、朔太郎は万葉の浪漫的抒情精神の復活を唱えた。1920年(大正8年)長女萩原葉子誕生。1922年(大正11年)次女明子誕生。
1923年(大正12年)1月詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、谷崎潤一郎を訪問。1924年(大正13年)2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」一二篇により同誌が発売禁止となる。1925年(大正14年)には妻と娘二人を伴い上京し、東京府東京市大井町(現・品川区内)、田端(現・北区内)へ移り住み、近隣の芥川龍之介や室生犀星と頻繁に往来し、8月に『純情小曲集』を刊行。雑誌『日本詩人』の編集を後に妹・アイが嫁ぐ佐藤惣之助と担当し、ニヒリズムの傾向を強める。11月、妻の健康回復のため鎌倉に転居。
1926年(昭和元年)下馬込(現・大田区内)に転居。1927年(昭和2年)頃から三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになる。三好達治は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として三国町で暮らすが、まもなく離縁する。1928年(昭和3年)に「詩人協会」の創立に伴い評議委員となり、2月『詩論と感想』を、12月『詩の原理』を刊行。
1929年(昭和4年)7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町(現・港区赤坂)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町(現・新宿区内)に居住。1931年(昭和6年)5月、万葉集から新古今集にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。1933年(昭和8年)に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、与謝蕪村や松尾芭蕉など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。
1934年(昭和9年)に詩集『氷島』を刊行。1935年(昭和10年)4月『純正詩論』、10月『絶望の逃走』、11月には『猫町』を刊行。自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行った。1936年(昭和11年)3月『郷愁の詩人与謝蕪村』、5月随筆論評集『廊下と室房』を刊行。前年に雑誌『文学界』に連載した「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受ける。10月に「詩歌懇和会」が設立されると役員となる。
1937年(昭和12年)に上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。3月『詩人の使命』、8月『無からの抗争』を刊行。「透谷会」の創立発起人となり、9月に「透谷文学賞」が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。1938年(昭和13年)1月「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。3月に『日本への回帰』を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判される。雑誌『日本』に「詩の鑑賞」を執筆した。4月、大谷美津子と結婚するも入籍せず。
1939年(昭和14年)にパノンの会(正式名・詩の研究講義の会)を結成。9月『宿命』を刊行。1940年(昭和15年)に『帰郷者』(第四回透谷文学賞受章)、『港にて』を刊行し、10月『阿帯』を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始め、1942年(昭和17年)に急性肺炎で世田谷の自宅にて55歳で死去。墓所は前橋市榎町政淳寺。法名は光英院釈文昭居士。
長女萩原葉子も作家であり、演出家の萩原朔美は葉子の息子である。朔太郎の妹愛子は、詩人佐藤惣之助の妻。
以下は生前に発表された作品のみ。「全集」は現在までに5度出版されている。最新版は、筑摩書房(全15巻および補巻、1986年から89年かけての出版)にある。
出生地である前橋市にある前橋文学館に、地元出身の詩人伊藤信吉(全集編集に従事し、伝記『萩原朔太郎』により、第28回読売文学賞を受賞)らの努力により、朔太郎など群馬県出身の詩人に関する貴重な資料が保存・展示されている。2007年9月7日、台風による強風で木が倒れ、生家に直撃し、屋根などが破損し修理された。
また、朔太郎の功績を記念して前橋市の条例により、萩原朔太郎賞が制定されている。萩原朔太郎賞一覧(萩原朔太郎賞一覧-萩原朔太郎研究所 のHPより)
1917年2月刊行の処女詩集『月に吠える』で全国に名を知られるようになった。続いて1923年1月に『青猫』を刊行。これは『月に吠える』と並ぶ朔太郎の代表作とされている。白秋に次いで文化学院で教鞭をとる。
この他、『蝶を夢む』、『萩原朔太郎詩集』、それらを集成した『定本青猫』がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、高村光太郎と共に「口語自由詩の確立者」とされる。一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。1934年6月に刊行された『氷島』では、全篇漢文調の文語体を用いて、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、散文詩と抒情詩(行わけ詩)をまとめた綜合詩集『宿命』であった。
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