芥川也寸志の出身高校

芥川也寸志 ミュージシャン

芥川也寸志卒業高校
筑波大学附属高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
ミュージシャンランキング
3位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1925年7月12日生まれ

芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRACメンバー。

快活で力強い作風と言われ、特に人気のある代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』などが挙げられる。また映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村(野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られると共に、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌や日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソングや社歌も手がけている。

文豪・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端に生まれる。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・文。兄は俳優・芥川比呂志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。

父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある。

東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた。1941年、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽に志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。東京高師附属中の同期には、石川六郎(鹿島建設名誉会長)、山本卓眞(富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。

1943年、東京音楽学校予科作曲部に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学ぶ。

1944年10月、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊し、テナーサックスを担当する。このとき軍楽隊の仲間に、東京音楽学校で1級上だった團伊玖磨がいた。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業、教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。

1945年8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。また当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。

1947年に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(別名・間所紗織、声楽科卒)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じる態度に出てもいるが、これはマーラーが妻・アルマに取った行動と軌を一にしている(しかし 二女をもうけた後、1957年に離婚、のちに紗織は画家として活躍する)。

1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。

同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。

1953年に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨とともに「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。なお、同年開催された毎日映画コンクールでは、『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している。

1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーの知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。

1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサートを2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチの交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行なった。

芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。また、音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若いころ父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。

1957年にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。またこのころから、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。なお、この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを務めた)。

1958年6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいうストーカー行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。

快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。

父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。

1967年12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。

1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ『百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーをつとめた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。

1978年、第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。

1989年、東京都中央区の国立がんセンターに入院中、肺癌のため逝去した。最後の言葉は「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』はなかにし礼の詞に基づき、病床の芥川が音楽を書き進めたが、主要な合唱部分のスケッチを書いたところで病状が悪化したため、親友黛敏郎からの助言と推薦で、黛の弟子の鈴木行一に補作(主にオーケストレーション)を依頼し、完成させた。“いのち”という題はなかにしの発案によるが、芥川に対してはその病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。

生前芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたとうかがわせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。

なお、曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真のなかに写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。

結婚を3度したが、2度目の妻は女優・草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる。最初の妻との間に生まれた長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志は成城大学文芸学部英文学科卒業後、エディター・スタイリストとして活躍している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。

芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。また芥川の死の半年後、埼玉県松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。

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