舟木一夫の出身高校
舟木一夫 タレント
- 舟木一夫卒業高校
- 自由ヶ丘学園高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- タレントランキング
- 1383位 / 2233人中 タレント別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 血液型
- O型
舟木 一夫(ふなき かずお、本名:上田 成幸、1944年12月12日 - )は、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)出身の歌手、タレント。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれている。学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。血液型はO型。身長172cm。
初期の所属事務所はホリプロダクション、現在のホリプロであった。
当初は舟木和夫という芸名になる予定だったが、舟木自身の希望で一夫になった。のびやかな美声で1960年代を中心にヒットを飛ばし、同じ時期にデビューした西郷輝彦、橋幸夫とともに「御三家」として人気を集める。青春ソングの定番「高校三年生」に代表されるように、学生時代を題材にした歌謡曲のほか、『銭形平次』のテーマソングのように、時代モノも数多く歌っている。また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。
1961年夏、名古屋で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。この少年こそ、後の舟木一夫である。 偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、遠藤実のレッスンを受けることとなった。 上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した。
1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。4月で高校を卒業していた舟木だったが、「学生服で行け」という遠藤実の指示で、歌謡界異例の学生服デビューとなった。なお、「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である。
「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。
1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。テレビ時代劇『銭形平次』のテーマソングも、番組のロングランもあって舟木の歌としてよく知られるところとなった。
また特に詩歌、文学をモチーフにした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでは持ち前の歌唱を活かして第一人者的存在となり、「絶唱」「夕笛」「初恋」などがヒットし、1966年には「絶唱」で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。このジャンルとしてはその集大成ともいうべきアルバム『その人は昔』がある。これは作家松山善三の長編抒情詩を正味1時間すべて舟木の歌唱で埋めるという、前代未聞の作品であり舟木の歌唱力が最大限に発揮されている。更にこの作品はLPとしては当時記録的な売上となり、後に舟木と内藤洋子の主演により映画化もされた。そしてこのLPおよび映画が劇画作家ながやす巧に大いなる影響を与え、その代表作『愛と誠』を生むきっかけとなった、という事実は、コミック界では有名なエピソードである。
1969年までは名実共に高い人気を保持していたものの1970年に入ると、かねてより多数出演していた歌謡映画が廃れ、TVドラマへの需要が無くなり、それに追い討ちを掛けるが如く歌謡界の変化に伴い表立った仕事は激減し舞台と地方公演が主な活動の場となってゆく。それゆえに1970年と1971年と1972年に自殺を図るが未遂に終わったり、1973年に心身の不調のため翌年まで10ヶ月間静養することとなる。
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