筒香嘉智の出身高校

筒香嘉智 プロ野球選手

筒香嘉智卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1991年11月26日生まれ

筒香 嘉智(つつごう よしとも、1991年11月26日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。

小学2年の時に、和歌山ニューメッツで野球を始める。中学では堺ビッグボーイズに所属し4番として30本塁打を記録。中学3年で全国大会ベスト8。ボーイズ関西選抜の4番として世界大会に出場。関西の強豪校からの誘いもあったが、横浜高校へ進学。

横浜高校でも長打力を買われ1年春から4番に抜擢される。1年生での4番は紀田彰一(元横浜)以来。2年夏に第90回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の浦和学院戦では先制本塁打。準々決勝の聖光学院戦では満塁弾を含む2打席連続本塁打を放ち、1試合個人最多タイとなる8打点を挙げる。準決勝で大阪桐蔭に敗れたものの、この大会では打率.526・3本塁打・14打点の活躍で4強入りに貢献。その後、腰痛の悪化により椎間板ヘルニアと診断され2ヶ月弱のリハビリをする。一時期スイッチヒッターへ転向するも左打ちに専念。

3年春の花巻東との練習試合では、4回の攻撃時に菊池雄星から特大ソロ(高校通算55本目)を放っている。しかも数日前から体調を崩し、当日の朝であっても39度の高熱が下がらないにもかかわらず、監督に出場を志願していた。

この夏の神奈川大会における7月26日の準々決勝では、9回表にチームが同点に追いつき、なおも二、三塁の好機に打順が巡ってきたものの、一塁ゴロで同点止まり。すると延長10回裏に2死から自身の失策がきっかけとなり、横浜隼人に9-10でサヨナラ負けを喫した。第8回AAAアジア野球選手権大会の日本代表に選ばれる。

2009年10月29日、プロ野球ドラフト会議で、横浜ベイスターズから1位指名を受け、11月30日に契約金9000万円、年俸800万円(金額は推定)で契約した。背番号は55。当初は右投両打で登録されていたが、後に左打ちに変更された。

キャンプでは二軍でじっくり育てられる方針だったが、途中から一軍に合流した。初の実戦形式の紅白戦では4番三塁で先発出場したが3打数無安打に終わった。高卒新人ながら二軍では4番で起用された。8月22日に高卒新人としては大田泰示の本塁打記録を塗り替え、9月12日には新人として竹原直隆の記録を5年ぶりに更新する24号本塁打を放った。最終的に26本塁打、88打点を記録し2冠を達成した。この活躍が認められ、首脳陣から9月20日以降に翌年以降の新人王の資格を残した範囲での一軍出場を示唆され、10月5日の対巨人戦で5番一塁で一軍デビューを果たした(結果は3打席無安打)。10月7日の対阪神戦で3打席目に久保田智之から一軍初安打となるソロホームランを放った。

背番号を8に変更。5月に右手首の靱帯を痛め、この影響から3ヶ月近く実戦から遠ざかったものの、最終的に2年連続で二軍の本塁打王に輝いた。8月に一軍昇格すると、主にクリーンナップとしてコンスタントに試合に出場するようになった。長打力を発揮する一方で三振も多く、10月18日の対中日戦(横浜)ではプロ野球タイ記録である1試合5三振を喫した。同記録は、セ・リーグ8人目、史上14人目の記録である。それでもシーズンを通じて40試合出場ながら、背番号と同じ8本塁打をマークし、大器の片鱗を見せた。

背番号を巨人に移籍した村田修一が付けていた25に変更。春季キャンプ中にチームメイトの佐藤祥万から死球を受けたことで左足首に骨挫傷を負い、開幕は二軍スタートとなった。5月に一軍昇格すると、その日のヤクルト戦(横浜)で「3番・三塁」で即スタメン出場した。5月6日の中日戦(横浜)では先発の山本昌から自身初となる、2打席連続本塁打をライトスタンドへ放ち、プロ野球史上最大年齢差本塁打(26歳差)を記録した。また、ランディ・ルイーズ入団後はチーム事情で一時期外野手にも挑戦した。最終的に自身初の二桁本塁打を記録したものの、打率が.218(規定打席到達者では最下位)と伸び悩み、課題の残るシーズンとなった。

オフに行われた「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表に選出された。

オープン戦で走塁中に左足首をひねり負傷し、一時は開幕戦絶望と思われていたが間に合わせ、「6番・三塁」で自身初の開幕スタメンに選ばれた。しかし開幕三連戦で9打数無安打を喫し、中村紀洋に三塁のポジションを奪われ、4月1日に登録抹消された。6月25日の神宮でのヤクルト戦から一軍復帰し、「5番・三塁」でスタメン出場し、3安打猛打賞を記録した。しかし一塁手にトニ・ブランコ、三塁手に中村が定着していたため出場機会が限られ、守備固めとしての起用や代打起用、また不慣れな左翼でのスタメン起用が多かった。8月に二軍に降格すると、その後はシーズン終了まで昇格することはなく、打率.216、ホームランは1本のみ、打点はわずか3という成績に終わった。

前年オフに正三塁手としてオリックス・バファローズを自由契約になったアーロム・バルディリスを獲得したことから、中畑清監督の意向により左翼にコンバートされた。オープン戦では打率.360と好調をアピールし、「5番・左翼」で2年連続の開幕スタメンを勝ち取った。開幕直後は8試合で打率.161、0本塁打と苦しんだが、結果的に3、4月の月間打率が3割ちょうどを記録するほどの盛り返しを見せた。6月17日には右太もも裏を痛めて一時的に二軍降格するが最短日数の10日で一軍へ復帰。その後は、4月中からリーグトップの得点圏打率をマークし続けていたことが評価され、ブランコや中村紀洋の戦線離脱による穴を埋めるように4番打者として起用された。ブランコが故障から復帰すると再び5番に回った。7月12日のヤクルト戦では自己最多となる11号本塁打を放った。しかし、8月13日の中日戦(ナゴヤD)の1回裏、中日の大島洋平が、左中間に放った打球を追って中堅手の梶谷隆幸と交錯、グラブを顔面に食らった上、地面に頭から落下。筒香は自力で起き上がれず、グラウンド内に入った救急車に救急搬送(ナゴヤドームでは初めて)された。9月6日の広島戦で復帰。復帰後はブランコを5番に押しやり、4番を任されることが多くなり、その後ブランコが再び故障離脱するとシーズン終盤まで4番を務め続けた。最終的に故障離脱がありながらも規定打席に到達、自身初となる打率3割を記録し、22本塁打、77打点と好成績を残した。また左投手からも.304、得点圏打率は両リーグトップの.416と勝負強さを見せた。

オフの11月9日、日米野球2014に怪我のため出場辞退した中村晃に代わり追加召集された。

キャプテンに就任。シーズン開幕前の2月16日に、GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表の日本代表に選出された。

7月16日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。シーズンではチームの4番として定着。打率.317(リーグ3位)、24本塁打(同4位)、93打点(同3位)、157安打(同3位)と自己最高の成績を残し、出塁率、長打率、OPS、塁打数では山田哲人に次いでリーグ2位を記録した。得点圏打率でも.344(同3位)と前年に続いて勝負強さを見せた。

オフの10月9日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表最終ロースター28名に選出された事が発表された。8試合35打席に出場し26打数10安打(打率.385)5打点の成績を残した。終了後のオフには志願してドミニカウインターリーグのレオネス・デル・エスコヒードプレーしている。

高校時代より、超高校級内野手として「ハマのゴジラ」として注目を浴びた。横浜高校の小倉部長からも「私が見て来た20年間でトップ」と評される。

2012年から4年間監督と選手の間柄だった中畑清も「1年目に練習を見たが凄い選手が入ってきた」、「俺は巨人のコーチ時代松井秀喜を指導していたが似たものを持っている。」と期待を寄せている。

自身には双子の姉がいる。横浜高等学校野球部の恩師である渡辺元智が語るところによれば「筒香は姉と同じ高等学校へ進学してもおかしくなかったが、PL学園対横浜高校の延長17回の試合を見て、ウチへの入学を希望してきた」という。

横浜高校3年時の第8回AAAアジア野球選手権大会でのインタビューで筒香は「将来的に日の丸を背負うことは、夢というより目標です」とコメントした。

ドラフト指名数日前に受けた取材でメディアに「将来的には松坂さんのようにメジャーで活躍する選手というのが自分の最大の目標なので、やっぱり向こうで勝負したいという気持ちはあります」と述べた。

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