石川啄木の出身高校

石川啄木 俳人

石川啄木卒業高校
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生年月日
1886年(明治19年)2月20日生まれ

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。

岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎と母・カツの長男として生まれる。戸籍によると1886年2月20日の誕生だが、1885年(明治18年)10月28日に誕生したともいわれている。

1887年(明治20年)3月に、父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する。

渋民尋常小学校、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名、現盛岡一高)で学び、小学校からは盛岡市内に居住する。

中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合う。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱く。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃である。1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。これが初めて活字となった啄木の短歌だった。

11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には与謝野夫妻を訪ねる。滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903年(明治36年)2月、父に迎えられて故郷に帰る。5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し、新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をし、6日後に堀合家から婚約に関して同意を得られる。9月から10月にかけて青森、小樽を旅行、駅長だった小樽の義兄宅に宿泊。10月31日、詩集出版を目的として再び東京に出る。

1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加。故郷では、3月に父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去するという事態が起きている。5月3日、出版費用を自分でも集めた第一詩集『あこがれ』を小田島書房より出版。上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられた。5月12日、啄木は不在だったが堀合節子との婚姻届を父親が盛岡市役所に出す。このとき啄木は満19歳、啄木は親戚が集まった形式的な結婚式には出席しなかった。

6月4日に盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る。一家の扶養も啄木が負うようになる。同月、『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載。9月5日、啄木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を出版する(発行人は父一禎)。岩野泡鳴、正宗白鳥、小山内薫等30人余りの作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが、資金問題で継続出版ができなかった。

1906年(明治39年)2月17日、函館駅長の義兄を訪問し、一家の窮状打開を相談するも解決できなかった。2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核で死去する。

3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務。21日には徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除される。6月、小説を書き始める。12月、評論「林中書」を脱稿し、12月29日、長女京子が生まれる。落ち着いた生活が続いたが1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社苜蓿社より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得る。4月1日、新生活を北海道で開こうとし、教職を離れることを決意して辞表を出す。いったんは引き留められるが、結局ストライキ騒ぎで退職する。

5月5日、函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せるが、妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活だった。5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる、6月、吉野白村の口利きで、弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合う。また、苜蓿社メンバーの宮崎郁雨と知り合い、以後死去前年まで交友を持つこととなる。8月には「函館日日新聞」遊軍記者も兼ねたが、函館大火によって離れる。9月、札幌で『北門新報』の校正係となる。9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社。なお、小樽日報では同僚に野口雨情がいた。当時の主筆が雨情と以前に確執があり、啄木も主筆と対立したことから雨情の起こした主筆排斥運動に荷担する。しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった。この主筆はそのあとに解任されている。

1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、釧路新聞 (2代目)(現在の釧路新聞社とは無関係、現在の北海道新聞社)に勤務するが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をする。

4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。5月4日、中学で一学年上だった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。逼迫した生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金銭を含むさまざまな支援をしている。9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。

1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記す。『スバル』創刊、発行名義人になる。就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。7日より新しいノートで「ローマ字日記」を著す。ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは、啄木死後70年近くを経た1970年代の全集出版時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。「彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と、金田一春彦は語っている(ちなみに京助は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったことがあったという)。

4月13日「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記にあり、次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はH・G・ウェルズの作品『宇宙戦争』を翻案したもので、1909年3月に出版されている。

6月16日、函館から妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうが、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。

1910年(明治43年)3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き出版事務全般を受け持つ。

5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆。6月3日、幸徳秋水拘引の記事解禁となるも、刑法73条に関わる記事はなかった。しかし新聞社勤務の啄木は連日の新聞記事を集める作業を進めており、これを「大逆罪」の件と認識していたと思われる。7月1日、社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。8月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆するが『朝日新聞』には掲載されていない。9月15日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。8月の朝鮮併合後の作として「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。10月4日、長男真一が誕生したが、27日には病死している。12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より出版。このとき啄木は満24歳だった。

1911年(明治44年)1月、友人で弁護士の平出修と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。

1月10日、アメリカ合衆国で秘密出版され、日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』を歌人谷静湖より寄贈され、愛読する。

1月13日、土岐哀果と会い、雑誌『樹木と果実』の出版計画を相談したが、結局実現はしなかった。

啄木の幸徳事件への興味は尋常ではなく、膨大な公判記録を部分ではあるが読み込み、裁判全体は政府によるでっち上げだったと確信する。

5月には幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに「A Letter from Prison」と題し前文を書く。

6月15日から17日にかけて長編詩を執筆、「はてしなき議論の後」と題す。

7月28日、妻節子も肺尖カタルと診断される。8月7日、病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町へ移る。9月3日、父が家出をする。

9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを読み、これを妻の不貞と採った啄木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた(いわゆる『不愉快な事件』)。

12月、腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。

1912年(明治45年)3月7日、カツ死去。4月9日、土岐は第二歌集出版の話を啄木に伝える。4月13日午前9時30分ごろ、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。享年26。

4月15日、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。土岐が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。6月14日、節子が次女を出産。房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける。6月20日、第二歌集『悲しき玩具』出版、土岐がタイトルをつける。9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。

1913年(大正2年)、一周忌を機に、函館の大森浜を望む立待岬に宮崎郁雨らの手で墓碑が立てられ遺骨も移される。同年5月5日、節子も肺結核で死去。遺児は節子の父が養育する。東雲堂書店から『啄木遺稿』『啄木歌集』が出版される。

1915年(大正4年)には、『我等の一団と彼』が東雲堂書店から出版。

1919年(大正8年)、友人たちの尽力により、3巻から成る全集が新潮社より出版される。

全集はその後も改造社(1928-29年 全5巻。1978年ノーベル書房から復刻)、河出書房(1949-53年 全25巻)、岩波書店(1953-54年 全16巻)、筑摩書房(1967-68年 全8巻、および1978-80年 全8巻)から出版されている。

1930年(昭和5年)京子が懐妊中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去。その二週間後には房江も肺結核により19歳で死去。

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