矢野清の出身高校
矢野清 プロ野球選手
- 矢野清卒業高校
- 八幡浜高校 偏差値 愛媛県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 998位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1940年7月3日生まれ
矢野 清(やの きよし、1940年7月3日 - 2014年11月20日)は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
愛媛・八幡浜高校では1958年の夏の甲子園に中堅手として出場。1959年に阪急ブレーブスに入団。一軍に定着できず1967年オフには自由契約選手の候補になったが、1968年夏場からその長打力を買われて初めてレギュラーとなった。規定打席には達しなかったが打率.301、本塁打27本の成績をあげ、「10年目の新人」と呼ばれた。1969年も25本の本塁打を放ち、オールスターゲームに初出場したが、他チームからの研究が進むにつれて打率が低下、.194に終わる。翌年も打撃低迷から抜け出せず、1970年限りで引退。
1968年10月11日に阪急西宮球場で行われた対東京オリオンズ最終戦(この年の阪急の公式戦最終試合)では、1-2で1点リードされた9回裏無死一塁の場面で成田文男から同点適時打を放ち、2-2の延長11回裏には成田から左翼席最前列にサヨナラ本塁打を放った。阪急はこの試合開始前の時点で南海ホークスと同率首位(79勝50敗、勝率.612)で並んでいた。南海も同日の日生球場での対近鉄バファローズ最終戦が公式戦最終試合であり、阪急・南海両チームの結果が同じだった場合プレーオフが行われる可能性があったが、西宮の試合終了から8分後に南海が敗れたため阪急がパ・リーグ2連覇を達成した。翌12日から始まった巨人との日本シリーズ第1戦は阪急が勝ち、3回に金田正一から逆転本塁打を放った矢野が賞金10万円を獲得した。
引退後は阪急・オリックスでコーチを務め、2000年10月にオリックス・ブルーウェーブ(当時)の球団本部長に就任。同年のドラフトで、オリックスは巨人入りを熱望していた敦賀気比高の内海哲也を1位で強行指名したが、内海は入団を拒否。交渉にあたった矢野は「意志は固かった。交渉にならなかった。巨人に行きたいばっかりで…。社会人入りを止める方法はない。1位という評価をもう少し真剣に考えてほしかった」と獲得断念を表明した。
2014年11月20日死去。74歳没。
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