真木和の出身高校
真木和 スポーツ選手
- 真木和卒業高校
- 今治北高校 偏差値 愛媛県高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 1186位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1968年12月10日生まれ
真木 和(まき いずみ、1968年12月10日 - )は、日本の元陸上競技(長距離走)およびマラソン選手。現姓山岡。愛媛県今治市(旧波方町)出身。
バルセロナオリンピック女子10000mとアトランタオリンピック女子マラソンに、二大会連続で五輪代表に選出など、1990年代前半から後半にかけて活躍した。現在は、シスメックス女子陸上部顧問・藤田信之が監督として主催する「F・R・A 藤田ランニングアカデミー」のアドバイザリースタッフを務めている。
愛媛県立今治北高等学校在籍中から頭角を現し、1987年ワコール入社後は長距離トラック競技(3000m~10000m)や、駅伝競走等でも所属チームの優勝に貢献するなどで活躍する。
1991年、世界陸上東京大会では女子10000mに初めて代表選出される。他にも五十嵐美紀、松野明美と三選手が代表入りとなる。松野は予選で落選となったが、真木と五十嵐が決勝進出。しかし初めての世界大会出場のプレッシャーからか二人とも全く本来の走りが出来ず、真木は20位、五十嵐は16位に終わった。
1992年、真木は兵庫リレーカーニバルで、松野明美の持つ10000mのタイムを更新する、31分40秒38をマークして日本新記録達成。その後日本陸上競技選手権大会で優勝し、バルセロナオリンピック女子10000m代表に選出された。他五十嵐美紀と鈴木博美も五輪代表選出へ。バルセロナ五輪10000m本番では予選で鈴木が通過出来なかったが、真木と五十嵐の二人が昨年世界陸上同様に決勝へ進出する。真木も五十嵐も昨年と打って変わって積極的なレースを見せ、8位入賞も夢では無いかと思われたが、二人ともレース後半ペースダウン、真木は12位、五十嵐も14位と入賞にあと一歩及ばなかった。
1993年、世界陸上シュトゥットガルト大会に再び女子10000mで出場。片岡純子は予選落ちしたが、真木と吉田直美が決勝進出。しかし決勝では入賞争いに加われず、真木は17位、吉田は15位に終わった。その後当時ワコールの監督であった藤田信之は真木に「10000mで世界では勝てない、世界一になるならマラソンしかない」とマラソン転向を勧められたが、真木は迷い答えを出せずにいた。
1995年、札幌国際ハーフマラソンで真木は1着でゴールしながらも、その後不運にもドーピング違反で失格、3か月の出場停止処分が下される(しかし真木も藤田監督も何故ドーピングに引っ掛かるのか全く分からなかった、という)。アトランタオリンピック前年の時期に思わぬ試練に立たされた真木であったが、翌1996年の東京シティハーフマラソンでは1時間8分18秒でゴール、当時のハーフマラソン日本最高記録で優勝し、汚名を返上した格好となった。そして、アトランタオリンピックの最終選考レースだった名古屋国際女子マラソンに、真木はエントリーを決める事となる。
その名古屋国際女子マラソンは、真木にとって全く初めての42.195Kmであったが、初マラソンとは思えない程の落ち着いた走りで、先頭集団の目立たない丁度良い位置でレースを進めていった。レースが動いたのは後半30km過ぎ、集団から飛び出したのは真木だった。その後集団がばらけ、さらに真木がペースを上げると、バルセロナ五輪金メダリストのワレンティナ・エゴロワ( ロシア)等が遅れ始め、そして最後まで真木に食らいついた盛山玲世も残り約1km地点で脱落し、真木が2時間27分32秒の当時名古屋の大会記録に迫る好タイムで初優勝。そして有森裕子、浅利純子らと共に、女子マラソンの種目でアトランタ五輪代表に選出された。
ところが、実は真木が名古屋に出走する前から、足のケガを抱えていた。名古屋のレースではケガを全く感じさせない走りを見せたが、その後故障が悪化。アトランタ五輪が近づいても、満足に練習できない状態が続き、歯がゆさを感じるようになった。一時は五輪出場辞退も考えた程だったが、それでもなんとか間に合わせ、1996年7月28日にアトランタ五輪女子マラソン本番の日を迎える事となった。しかし、足の故障の影響がレース序盤の10kmを過ぎて出てしまい、浅利と共に優勝争いから脱落。真木は後半30Km辺りからケガの痛みがやわらぎ、追い上げを開始したもののそれも時既に遅過ぎた。ゴールタイムは2時間32分35秒で、結局バルセロナ五輪10000mと同じ奇しくも12位という成績だった(浅利は17位)。3位に入り銅メダルを獲得した有森には遠く及ばなかったが、真木の最後まで諦めないすがすがしい力走がお茶の間の好感をよんだ。
アトランタ五輪後の真木は結局故障は完治せず、本来の輝きを失い現役引退となりコーチとなる。その後ワコールが監督の藤田を解雇すると、真木等女子部員何人かも一緒に退社した。その部員の中には真木に憧れて入社という野口みずきもいた。しばらく無職でハローワークで職探ししながらの練習となったが、1999年グローバリーが手を差し伸べ、藤田監督、真木コーチ、野口みずき等の選手等の集団で、グローバリー陸上競技部を設立した(しかし2005年グローバリー陸上競技部も廃部、その後藤田監督と野口選手等はシスメックスへ移籍となった)。
2003年に真木は関西テレビ局員の山岡重行と結婚し、グローバリーのコーチ業を退職。その後長男を出産し一児の母となったが、今でも藤田監督と野口みずき等とはとても親しい間柄である。野口が2004年アテネオリンピックで優勝し金メダルを獲得した際も、真木は陸上専門誌に野口の快挙を祝う手記を発表した。また真木は弘山晴美と鈴木(現・伊東)博美と三人共に同期生(1968年度生まれ、松野明美も同期で4人揃って「四天王」とも呼ばれた)で、仲の良い戦友でもあった。2006年、名古屋国際女子マラソンで弘山が初優勝した際、長男を連れていた真木は、鈴木とゴール後の弘山と嬉しい抱擁を交わしていた。
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