皆川定之の出身高校

皆川定之 プロ野球選手

皆川定之卒業高校
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プロ野球選手ランキング
716位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1919年10月9日生まれ

皆川 定之(みながわ さだゆき、1919年10月9日 - 1986年12月11日)は群馬県出身のプロ野球選手、コーチ、監督。子に同じく野球選手の皆川康夫。

旧制桐生中学(現:群馬県立桐生高等学校)時代には、第13回選抜中等学校野球大会、第20回全国中等学校優勝野球大会、第21回全国中等学校優勝野球大会、第22回全国中等学校優勝野球大会の4回の甲子園に出場した。チームメイトに、大阪タイガースでも同僚になる青木正一がエースとして、近鉄スカウトになる塚越源市が捕手としていた。

1937年にタイガースに入団した。入団の経緯は、青木を獲得に行ったタイガースの早川渉外に、桐生監督の稲川東一郎が「青木よりいい」と紹介したことから始まる。戦前とはいえ、身長156cmの皆川は特に小柄で、同年春シーズンに公式戦初出場した際、球審を務めていた二出川延明は、皆川をバットボーイと勘違いし「坊や、向こうへいけ」と言ったという話が伝わっている。

1938年秋季シーズンから出場数が増え始める。11月16日の対イーグルス戦では、2回表、8番に入った青木正一の打席で、9番の皆川定之が打順を間違えて打席に入り、皆川はライトフライに倒れる。すぐに打順間違いをイーグルスに指摘され、記録上は皆川の打席は青木が打った事になった。続く打席で皆川が再び入り、四球を選んでいる。これは日本プロ野球史上初となる、打順間違いの事例となった。

1939年には88試合、1940年には101試合に出場した。

39年~41年にかけては東西対抗にも出場。1941年オフに戦争の影響で退団。退団後は全桐生に所属し都市対抗野球にも出場していた。

1948年に急映フライヤーズに入団しプロ復帰。同年途中より苅田久徳に代わって代理監督も兼務した。

その後、大生相互銀行・全前橋・河合楽器を渡り歩き、河合楽器の監督に就任した。

皆川の選手としての特徴は、その守備にあった。タイガースで同僚だった松木謙治郎は、後に皆川について「守備だけなら吉田以上」と書いている。

その一方で、打撃は打率が2割5分を超えたことがない、そもそも2割を切るシーズンもある上、シーズン最多三振を記録する(1951年)など難があった。しかし、その一方で選球眼に優れており、四球を数多く選んでいる。1949年シーズンは、リーグ最多の80四球を選んでおり、打率.178ながら、出塁率.295を記録している。出塁率3割を超えているシーズンも多い。また、犠打も多用しており、シーズン最多犠打を3シーズン記録している(1941年、1948年、1951年)。

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