白川方明の出身高校
白川方明 実業家
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- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1949年9月27日生まれ
2008年4月11日、ワシントンD.C.でのG7財務相・中央銀行総裁会議にて
白川 方明(しらかわ まさあき、1949年9月27日 - )は、日本の中央銀行家、経済学者(金融政策・決済システム)。2008年に第30代日本銀行総裁。
学位は経済学修士(シカゴ大学)。日本銀行審議役、日本銀行理事、京都大学大学院公共政策教育部教授、東京大学金融教育研究センター客員研究員等を歴任した。日本銀行総裁退任後、2013年9月1日付で、青山学院大学国際政治経済学部特任教授に就任。
日銀総裁時代の業務に関しては、デフレーション脱却のための金融政策に消極的であったため日本経済が弱体化し、為替政策では前例のない超円高の状態を引き起こし、総合的な結果として日本国民を苦しめたという論評など批判的な評価が多く見受けられる(後述)。2013年1月、白川総裁まで長く続いてきた日本銀行の体制は安倍晋三首相のデフレーション脱却の強い意向により大きく刷新され始めた。
福岡県北九州市出身。小倉市立中島小学校、福岡県立小倉高等学校を経て、東京大学経済学部卒業。
東大時代、旧民社党系シンクタンクである民主社会主義研究会議(民社研)に所属し、活動。経済学部では小宮隆太郎ゼミに属した。
1972年4月日本銀行入行。シカゴ大学大学院経済学修士。シカゴではミルトン・フリードマンの授業を受けた。その後、大分支店長、ニューヨーク駐在参事などを歴任。2002年7月 日本銀行理事(金融政策担当)に就任。2006年まで4年間務める。
2006年7月、京都大学大学院公共政策教育部(いわゆる公共政策大学院)にて教授に就任し、2008年3月まで務めた。また、東京大学の金融教育研究センターにて客員研究員も兼任した。
2008年3月13日、日本銀行副総裁として国会の同意が得られたため、3月19日の持ち回り閣議を以て日本政府より日本銀行副総裁に正式に任命された。
かつて日本銀行総裁は大蔵省OBと日銀OBが交代で務めるたすき掛け人事が続いていたが、28代の速水優、29代の福井俊彦と2代続けて日銀OBが就任していた。福井の任期満了に伴う次期総裁人事において日銀の独立性が確保されるかが争点となる中、政府が国会に提示した武藤敏郎(日銀副総裁)及び田波耕治(国際協力銀行総裁)の総裁人事案は野党が多数を占める参議院で否決され、3月19日で総裁を退任した福井が3月20日付で副総裁に就任する白川を「次期日銀総裁が就任するまでの間、総裁の職務を代行する者」に指名した。これにより、白川は副総裁就任と同時に日本銀行総裁職務代行者となった。
白川方明は日本銀行副総裁就任後直ちに総裁職の代行を務めたが、日銀総裁の空席による総裁代行の立場が長期間続くと、総裁代行という立場では内外の経済問題への対処が難しくなる恐れが指摘された。この間、モルガン・スタンレー証券のロバート・フェルドマン経済研究主席は、日銀総裁人事などの重要案件には「特定の基準に照らして開かれた議論」が望ましいと主張し、中央銀行マン・官僚・財界人ら19人を「マクロ経済学と独立性」「政策決定機関のトップをつとめた経験」「国内外のネットワーク」の3指標で採点した結果を「次期日銀総裁 -- 候補者を比較する」と題する調査報告書として発表した。最も評価が高かったのは、小泉純一郎内閣で経済財政担当相や金融相などを歴任した竹中平蔵と日銀出身で金融研究所所長や経済協力開発機構(OECD)の副事務総長を務めた重原久美春で、武藤は「マクロ経済学と独立性」で17位、ほかの二つの基準で18位にとどまり、田波はいずれの基準でも最下位であった。こうして特に海外では重原久美春の日銀総裁就任を待望する声が高まったが、結局、既に総裁職務代行者であった白川が国会の同意を得て2008年4月9日に第30代日銀総裁に就任した。日銀総裁空白期間は20日間であった。2011年1月からは国際決済銀行(BIS)副議長に就任。日本人のBIS副議長就任は1939年に加納久朗横浜正金銀行(現三菱東京UFJ銀行)ロンドン支店支配人が就任して以来のことで、日銀総裁としては初めてであった。
2013年2月5日、同年4月8日の総裁任期の5年満了を待たずして、3月19日付で日本銀行総裁を辞職することを表明した[7]。
経済学者の浜田宏一は学生時代の白川を「数学やグラフを使って経済学を考えることが得意な人物であった」と語っている[8]。
学者肌の人物であり、過去の日銀総裁と比較して、政官界や財界とのパイプや交渉力などは未知数であるとの評もあったが、大学教授時代も現場復帰を熱望していたという。金融政策を担当する企画局勤務が長く、急な就任にも日銀トップとして違和感がないとされる。
金融政策を語り出すと止まらなかったり、「日銀の仕事は面白い」と語ることなどから、周囲から「趣味は金融政策」などと言われる[9]が、後輩の翁邦雄によれば、「趣味は金融政策というより中央銀行そのもの」であり、狭義の金融政策を超えて、日銀機能の強化といった課題にも意欲を燃やしているという[10]。ミルトン・フリードマンの『A Monetary History of the United States』を愛読書の1つだと述べている[11]。他に趣味としてバードウォッチングを楽しむ。
白川は日銀総裁退任の会見で、生まれ変わったらもう一度総裁に就くかと問われ「そうは思わない」と明確に否定し「とりあえずあすから自由の身になるので、バードウオッチングをしたい」と述べている[12]。
日本銀行総裁就任後の4年間、リーマン・ショックや東日本大震災、欧州債務危機に立て続けに見舞われ、5年の在任期間で15回の金融緩和に踏み切り、資産買い入れ額を101兆円まで増額した(2013年末までの残高目標)[13][14]。白川は中銀としては異例の上場投資信託(ETF)や不動産投資信託(J-REIT)にまで買い入れ資産を拡大している[15]。東日本大震災直後の2011年3月14日の定例会見で、「前代未聞の震災が起こった割には基金増額の規模や内訳がしょぼいのではないか」との声が出たのに対し「決してしょぼくない」と反論している。
ゼロ金利政策、量的緩和政策に対しては、効果が「限定的」であるとしてきわめて批判的であった[16]。量的金融緩について京大教授時代に執筆した著書『現代の金融政策』で、「景気・物価に対する刺激という点で中心的な効果は時間軸効果であり、量の拡大はほとんど効果を発揮しなかった」としている[17]。また、白川は「FRBは流動性の供給を拡大しているが、物価を押し上げる力は乏しい」と指摘している[18]。
日銀のマネタリーベースの増やし方は先進国で最大で、これだけ金融緩和をしても経済が成長していかないことの方が問題と指摘し、人口減少と高齢化の中で成長力をどう高めるかが課題との持論を持っている[19]。
2013年3月7日、金融政策決定会合後に記者会見で、金融緩和が効果を出すには「中長期的な財政規律が重要である」と強調し、政府に財政再建の取り組みを促している[20]。
白川方明は、日本のデフレーションの原因について
を挙げている[21]。また、白川は「デフレには様々な定義があり、一概には定まらない」と指摘している[18]。
デフレ脱却には「生産性の向上」が必要であり、それには「民間企業と政策当局双方の努力が必要である」と強調し、政府は「企業が熾烈なグローバルな競争環境に置かれていることを踏まえて、さまざまな制度や仕組みを見直すことが重要である」と述べている[22]。
2009年11月20日、金融政策決定会合後の記者会で、「持続的な物価下落は、マクロ的需給バランスが緩和していること、言い換えると需要の弱さの結果として生じる現象」と指摘し、「需要自体が不足している時には、流動性を供給するだけでは物価は上がってこない」との考えを示した[23]。
2009年11月4日、白川は都内の講演で「物価下落が起点となって景気を押し下げる可能性は小さい」と述べている[24]。
2012年4月21日、米ワシントンで講演し「中央銀行の膨大な通貨供給の帰結は、歴史の教えにしたがえば制御不能なインフレになる」と述べた[25]。
白川は中央銀行の総裁という立場から、日本でハイパーインフレが起きる起きないということ自体に言及することは不適切との考えを示している[26]。
2013年2月28日、日銀総裁の任期中最後の講演で「多くの国民は単に物価だけが上がることを望んでいる訳ではない」とし、金融緩和による物価上昇による実質所得の低下などの副作用を懸念した[27]。
2013年3月19日、退任記者会見で、日銀が市場の期待に働きかけて物価上昇を目指す手法(リフレーション)について「期待に働きかけるという言葉が、中央銀行が言葉によって市場を思い通りに動かすということであれば、そうした市場観や政策観に私は危うさを感じる」と述べた[28][29][30]。白川は「マネタリーベースを増やせば物価が上昇するという相関関係は断ち切られている」と指摘し、デフレの原因については「すべての経済現象を貨幣現象だけで説明できるわけではない」「金融緩和と供給面、構造面での努力が相まってデフレの根本的な問題に対処できる」と金融政策だけでデフレは克服できないとの考えを重ねて強調した[28][29][31]。
2014年5月13日、アメリカのダートマス大学タック・スクール・オブ・ビジネスでの講義で「日本経済の主な問題はデフレではなく、人口動態である」と述べている[32]。また同講義で「デフレは極めて低い失業率の裏返しである」と述べている[32]。
2012年2月14日に日本銀行が設立した中長期的な物価安定の目途1%について、「プラス2%で政策を運営すると、過去に経験のない事態が起きるので大変不確実性が高く、経済活動に悪影響を与える」「海外が2%だからといって日本も2%を目指すというのは間違い」と述べた[33]。
2009年11月3日、白川は講演で「インフレ誘導政策を採用すれば、様々な問題が起こる」「中央銀行はそのような政策は決して行わない」と述べている[34]。
2012年11月12日、都内の講演でインフレ目標について「物価も賃金も上がらない状況が長く続いた日本経済では現実的でない」と述べ、否定的な見解を示した。また、日本の消費者や企業では「物価は上がらないのが普通だという感覚」が定着していると述べた[35]。
「為替は金融政策によって変わる」というマネタリーアプローチは白川がシカゴから持ってきた理論である[36]。経済学者のハリー・G・ジョンソン、ジェフリー・フランケルの論文の「国際収支の不均衡は貨幣市場の不均衡によってもたらされ、調整は金融政策が有効である」という説を引用し[37][38]、マネタリーアプローチに基づく為替レートの実証分析についての論文を、留学して戻ってきた1970年代に発表している[39](白川方明「マネタリー・アプローチについて」『金融研究資料』第3号、1979年8月[37])。論文には「為替変動などの経済現象に対しては日本銀行の金融政策が有効である」と書き記している[38]。
2012年5月24日の衆院特別委員会で、2001年3月から2006年3月まで実施した量的緩和政策の経験を踏まえ、「マネタリーベースが増えている時に円高になり、量的緩和解除後にむしろ円安になっている」と指摘し、量と為替に明確な相関を見出せないとの認識を示した[40]。
2013年2月28日、日銀総裁の任期中最後の講演で「(過去15年間にたびたび訪れた)円安局面でも潜在成長率は上昇しなかった」と指摘している[27]。
中央銀行が国債を引き受けないのは「国の形」だと表現し、引き受けた場合の副作用を厳しく警戒している[19]。
2013年1月9日の経済財政諮問会議で「日銀が財政ファイナンス(赤字の穴埋め)をしているという懸念をもたれないように、財政再建に取り組むことが重要だ」と述べている[41]。
自民党の安倍総裁は2012年11月にインフレ目標2%を達成するまで無制限な金融緩和をすべきと選挙公約し、政権を取ると直ちに、これまでの白川日銀とは大きく路線の違う量的金融緩和を日銀に実行させた[42]。これらにより、急速に円高が是正され、野田佳彦が衆議院解散を表明してから、5ヶ月で20円円安が進んだ[43]。また、株価も急速に改善し、2013年5月15日には5年4ヶ月ぶりに日経平均株価が15,000円台を回復した[44]。また、安倍は大胆な金融緩和のために日銀総裁、副総裁の人事にも大きな影響力を行使した(#白川退任後の日銀体制)。
2012年、金融経済部門の優れたリーダーとして、日本人で初めて米国の「外交評議会(FPA)メダル」を受賞した[14]。
2012年12月3日、フランスの貴重な理解者であるとされフランス銀行のクリスチャン・ノワイエ総裁により、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙された[45]。
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