渡辺康幸の出身高校

渡辺康幸 スポーツ選手

渡辺康幸卒業高校
船橋市立船橋高校 偏差値 千葉県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
1483位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1973年6月8日生まれ

渡辺 康幸(わたなべ やすゆき、1973年6月8日 - )は、千葉県千葉市出身の日本の陸上競技選手、指導者。専門は長距離走。住友電工陸上競技部監督。市立船橋高校、早稲田大学人間科学部卒業。

市立船橋高校、早稲田大学のエースとして全国高等学校総合体育大会、全国高等学校駅伝競走大会、東京箱根間往復大学駅伝競走などの大会で大活躍を見せた。大学以降は瀬古利彦の指導を受けて、日本代表として1992年世界ジュニア陸上競技選手権大会10000m3位、1995年世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m優勝の成績を収めた。1996年にエスビー食品へ入社しマラソンで世界を目指した。アトランタオリンピックの10000mはアキレス腱の故障により出場ができなかった。度重なる怪我により、2002年に現役を引退した。

その後は指導者へ転身し、低迷する母校早稲田大学競走部長距離部門の育成に取り組み、2004年に駅伝監督に就任した。2010年の第22回出雲全日本大学選抜駅伝競走、第42回全日本大学駅伝対校選手権大会、2011年の第87回東京箱根間往復大学駅伝競走を制した。2015年3月をもって早稲田大学競走部駅伝監督を退任、2015年4月からは住友電気工業陸上競技部監督を務めている。

1973年千葉県に生まれる。渡辺は祖父が元800m栃木県記録保持者で、父も短距離走の選手という家庭に育った。小学生の頃は野球とサッカーのクラブチームに入り、野球では投手で4番となる運動神経を備えていた。1986年中学校に進学。野球かサッカーを続けようと考えていたが、父の勧めにより陸上部に入部した。中学校の陸上部の練習は厳しくなかったが走ることに楽しさを見出し、3年時に千葉県大会800m3位となった。また駅伝では千葉市大会で区間賞を獲得して優勝し、千葉市選抜チームとして出場した千葉県中学校駅伝大会でも区間賞を獲得した。1988年12月に第1回国際千葉駅伝が開催され、母校の中学校の前をアンカーで後に師となる瀬古利彦が駆け抜けた。目の前を走る瀬古を見て歩道を伴走し一瞬で置き去りにされたが、この時のできごとが渡辺の陸上に対する想いを強くした。これは瀬古の引退レースでもあった。

渡辺は県駅伝大会の結果により、箱根駅伝の強豪私立大学の附属校からのスカウトを受けて進学を考えていたが、その後市立船橋からの勧誘を受けた。監督の小出義雄が中学生の渡辺について「タイムは関係ないんですよ。大切なのはフォーム。康幸くんは大きな走りでねえ。こりゃあ絶対に伸びると思った」と高く評価しており、小出や渡辺敏彦が指導する陸上全国区の強豪校「市船」に憧れを抱いていた渡辺は、私立校への進学を勧める父親を説得し、市立船橋高校普通科の一般入試に合格して同校へ進学した。

市立船橋高校では渡辺敏彦監督指導の下、渡辺は陸上強豪校の厳しい練習を重ねた。朝練習からビルドアップ走と呼ばれる後半にかけて速度を上げるトレーニングの9km走が日課となった。放課の練習内容は曜日によって異なり、大きな高低差があるコースの20km走や、400m×20本のインターバル走、あるいはクロスカントリーコースを走る練習などを行なっていた。休養は日曜日のみであった。練習の成果はすぐに現れ、入学4ヵ月後の8月に初めての全国大会出場となる国民体育大会に出場し、少年男子B5000mで2位入賞の成績を残した。

渡辺は1989年の1年時から全国高等学校駅伝競走大会・都大路に3年連続出場した。2年時からは2年連続で各校のエースが集う花の1区・10.0kmを走った。NHKのテレビ中継でレースの解説を務めた宗茂が「彼は高校2年生にして、実業団2年目の選手に匹敵する走力の持ち主」と紹介するなど注目を集める中、29分42秒で区間賞を獲得した。3年時は区間記録29分29秒の更新を狙って西京極競技場を先頭で飛び出し、2位に70m差をつけるなどハイペースで後続を振り落としつつ疾走した。12月ながら気温が17度を超える悪条件の中、7km過ぎで腹痛を起こし9kmからのラスト1kmは3分以上要したが、29分34秒を記録して区間賞を獲得した。1区の2年連続区間賞獲得は30年ぶり史上4人目となる快挙であった。また、都大路前の関東高校駅伝1区10kmでは高校生初の28分57秒を記録している。

渡辺は2年時から高校長距離では無敵を誇り、1990・1991年の国民体育大会少年A10000mを連覇した。3年時には全国高等学校総合体育大会で1500m・5000mの2種目を制した。12月1日の中央大学記録会10000mにおいて28分35秒8を記録し、櫛部静二の従来記録を36秒更新する日本高校記録を樹立した。

渡辺は1990年8月にプロヴディフで開催された世界ジュニア陸上競技選手権大会5000mに出場し、初めて日の丸のユニフォームを身にまとった。この時は緊張から来る腹痛により予選を途中棄権する結果に終わったが、世界の大舞台・世界の強さを自らの身で経験し、成長への大きなきっかけとした。1991年3月ボストンで開催された世界クロスカントリー選手権ジュニアでは優勝したイスマイル・キルイから31秒差、2位のハイレ・ゲブレセラシエから23秒差でゴールし、日本勢最高位の7位に入った。渡辺は10以上の大学・実業団からスカウトを受けたが、コーチを務める瀬古利彦の箱根ではなく世界を目標に考える勧誘を受け、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦ら強い選手と競争できる環境を求めて早稲田大学人間科学部に進学した。

1992年4月渡辺は早稲田大学に入学した。瀬古は大学入学以降一貫して、渡辺に世界を見据えた練習と戦いをさせた。渡辺はエンジのユニフォームに袖を通して、1年春から活躍を見せた。同じ早稲田大学の2年先輩である三羽烏と呼ばれた武井隆次・櫛部静二・花田勝彦、1年後輩の小林雅幸の他に、山梨学院大学の留学生であるステファン・マヤカなど、渡辺の大学時代には優秀な長距離選手が揃っていた。特に同学年のマヤカとはトラック・駅伝の舞台を問わず熾烈な戦いを繰り広げた。渡辺は後に、関東学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇、10000m3連覇、日本学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇を飾るなど秀でた成績を残した。

大学1年時の1992年、渡辺は5月の関東学生陸上競技対校選手権大会10000mで武井に次ぐ2位に入り、9月11日の日本学生陸上競技対校選手権大会5000mで高岡寿成に次ぐ2位となった。9月18日の世界ジュニア陸上競技選手権大会10000mでは3位に入賞し銅メダルを獲得した。このレースでは2位でゴールしたケニアのジョセファト・マチュカ(英語版)が、優勝したハイレ・ゲブレセラシエをレース中に殴ったため失格となり、4位でゴールした渡辺が3位に繰り上がった。11月、渡辺は第24回全日本大学駅伝で初めてエンジの襷を胸に掛けて大学駅伝を走り、早稲田大学による全日本大学駅伝初優勝の一員となった。第69回箱根駅伝では花の2区・23.2kmに抜擢された。1区櫛部から襷を受けると先頭を守り、早稲田大学7年ぶりの往路優勝および8年ぶりの総合優勝に貢献した。早稲田大学は総合タイムの新記録を樹立した。

大学2年時の1993年、渡辺は8月にバッファローで開催されたユニバーシアード10000mに出場し銀メダルを獲得するなど活躍を見せた。全日本大学駅伝を連覇した後、第70回箱根駅伝に出場し1時間01分13秒を記録し、前年櫛部が記録した1区の従来の記録を上回る区間新記録を樹立した。駅伝とハーフマラソンの違いがあるものの、日本記録を上回る記録と言われた。だが、この時同じく1区を走った山梨学院大学の井幡政等も区間新記録の快走を見せ、井幡とわずか27秒差しか広げられず、その後2区で花田がマヤカに抜かれると、早稲田大学は連覇を逃し、山梨学院大学が総合タイムの記録を更新して優勝した。

大学3年時の1994年、渡辺は夏にヨーロッパに遠征し、アスレティッシマで世界陸上競技選手権大会の10000m参加標準記録A28分10秒00をクリアした。ロンドングランプリで5000mの自己記録となる13分26秒53を記録した。遠征によってトラック種目での世界トップレベルとの力の差を実感し、マラソンで世界を目指すことを意識する。11月、渡辺は全日本大学駅伝に8区アンカーとして出場した。区間新記録を樹立する走りで粘る山梨学院大学の中村祐二を振り切り、早稲田大学の3連覇に貢献した。第71回箱根駅伝では2区を走り、マヤカを抑えて区間賞を獲得。初めての1時間06分台となる1時間06分48秒の区間新記録を樹立した。この大会では2区渡辺、3区小林正幹、4区小林雅幸と早稲田勢が3区間連続で区間記録を更新した。早稲田大学は往路新記録を樹立し2年ぶりの往路優勝を飾った。渡辺は箱根の後1000kmを走る距離練習を積み、1995年3月のびわ湖毎日マラソンでマラソンに挑戦する予定であったが、この年の多量の花粉飛散を原因とする花粉症に悩まされて気管支炎になり出場を断念した。

大学4年時の1995年、渡辺はインカレ、日本選手権の出場を経て、8月6日世界陸上競技選手権大会10000m予選2組に出場した。第2集団につけてレースを進め、終盤に追い上げて27分48分55の記録で6着となり、予選通過を果たした。この時の記録は瀬古が保持していた男子10000mの日本学生記録を更新するものであった。8月8日の10000m決勝ではハイレ・ゲブレセラシエが27分12秒95の大会新記録で2連覇を飾ったが、渡辺は27分53秒82の記録で12位となった。渡辺は、日本選手権から世界選手権の予選・決勝にかけて3戦連続で10000m27分台を記録した。9月2日福岡で開催された第18回ユニバーシアード10000mに出場した。雨の中、残り500mからスパートをかけマヤカを振り切り優勝、金メダルを獲得した。11月の第27回全日本大学駅伝対校選手権大会では中央大学との1分31秒という大差を逆転し、早稲田大学の全日本駅伝4連覇に貢献した。この秋、渡辺はアトランタオリンピックのマラソン日本代表選出と瀬古が持つ大学生初マラソン記録更新を目標として、月間走行距離900kmの練習を積んでいた。

1996年の第72回箱根駅伝を競走部主将として迎えた。2区を走る渡辺は先頭から37秒差の9番手で1区梅木蔵雄の襷を受け取り、2.4kmまでに8人を交わして先頭に立った。最初の5kmを14分05秒で通過するハイペースで終盤まで押し切り、2分04秒まで差を広げた。5区では小林雅幸が区間新記録を樹立して早稲田大学は往路優勝を飾った。渡辺の箱根駅伝総合優勝は大学1年時第69回大会の1度に止まる。渡辺の2年時、早稲田大学は武井・櫛部・花田・小林正幹・渡辺・小林雅幸と、10000mの自己記録28分台を持つ選手を6人揃えて「ビッグ6」と呼ばれ、実業団と互角に戦えるチームと言われた。一方で、その他の選手との力の差があったことや、箱根駅伝特有の5区、6区の適性にあった選手を揃えていなかったことから、8人で走る全日本大学駅伝では4連覇を達成した一方、10人の選手を必要とする箱根駅伝では5区、6区でチームは毎年ブレーキとなり大学1年時しか総合優勝を達成できなかった(唯一、総合優勝を果たした第69回大会でも6区で一度山梨学院大学に逆転を許している)。

箱根駅伝後の1月5日、渡辺は東京国際マラソンへ向けて練習を再開した。渡辺は左太もも裏に筋膜炎を起こしながらも練習を続行していたが肉離れを起こし、2月12日に東京国際マラソンの出場辞退を発表した。この後3月のびわ湖毎日マラソンに目標を切り替えて奄美大島で合宿を積み、アトランタオリンピック日本代表を目指した。3月3日、初マラソンのびわ湖毎日マラソンでは先頭集団につけて進んだが、35km過ぎから遅れはじめて2時間12分39秒の記録で7位に終わった。渡辺は10社以上の実業団から勧誘を受けたが、ヱスビー食品に入社した。

1996年ヱスビー食品に入社した渡辺は、トラック種目でアトランタオリンピック日本代表を目指すことになった。6月日本陸上競技選手権大会10000mでは、高岡、花田にラスト勝負で僅かに及ばなかったものの3位に入り、男子長距離トラックの10000m日本代表に選出された。しかし、日本選手権時に左足のアキレス腱を痛めた。アトランタオリンピックの10000m予選を迎えて左足の状態は悪化しており、アキレス腱に強い痛みが起きていた。このために直前で出場を回避した[49][50]。この故障が長引いて、レースに出られない状態が続いた。

1998年1月のニューイヤー駅伝の最終7区では区間新記録を樹立する走りで追い上げた。先頭を行く旭化成には届かなかったが、エスビー食品は準優勝を飾った。4月、兵庫リレーカーニバル10000mに出場し日本歴代6位となる27分46秒39を記録するなど、この年渡辺はアキレス腱の故障を抱えながらも練習を積んでいた[51][52]。夏にマラソンへ向けて距離練習に挑んでいたが、9月の合宿期間中に左太ももの故障を再発[52]。12月、福岡国際マラソンに出場し30kmまで先頭集団につけレースを進めたが、左太ももを痛めて34km過ぎで無念の途中棄権となった[53][54]。2000年のシドニーオリンピックには故障再発のために、マラソン・長距離トラックの国内選考会へ出場ができなかった。アトランタオリンピックで棄権して以降、渡辺は心無い批判を受けることもあり苦しんでいた[55]。2002年夏、渡辺に故障が再発、7年間で7度という慢性的なアキレス腱の故障によって2002年9月9日に引退を発表した[56][57]。

渡辺は2003年4月から母校・早稲田大学へ出向し、競走部コーチとして指導に当たった。早稲田大学体育会各部は1990年代後半から奥島孝康早稲田大学総長が指揮を執り、組織的な指導・管理、スポーツ医科学や設備の整備が進められていた[58]。駅伝についても大学創立125周年にあたる2007年に向けて強化が進められており、この時期に渡辺の駅伝監督への昇格話が持ち上がった[59]。第81回箱根駅伝で早稲田大学が16位に沈んでいたために状況の困難さを理解する瀬古やOBらから渡辺は引き止められたが、苦戦する母校の復活と1年間指導した選手を思って2004年4月に駅伝監督に就任した[60][61]。渡辺は、競走部の後輩で箱根駅伝の5区・6区経験者でもある相楽豊をコーチとして迎えた。また、選手の食事面・身体面のケアのために栄養士とトレーナーを新たに招いた。

早稲田大学は大学間の獲得競争激化のために優秀な高校生の確保に苦慮していたが、2005年に入学した高校総体5000m日本人3位の竹澤健介の活躍と時期を同じくして、選手権大会のトラック種目・駅伝大会の成績が向上した[62][63]。以後高校総体日本人1-3位の選手や高校駅伝優勝校の選手が入学した。またこの時期に早稲田大学は所沢キャンパスの陸上競技場を改修、所沢市にある競走部合宿所も新築され2007年に竣工している[64]。

渡辺は就任当初練習の強化による方針の失敗で故障者の増加を招いて苦しんだが、合宿所で選手と寝食を共にしながら選手が継続的な練習が行なえるように方針を変更し効果を上げた[65][66]。量だけを求める練習を良しとせず、現実的な動機付けと目標設定を重視した[67][68]。選手を陸上競技に縛り付けず、メリハリが効いた自己管理を求めた。渡辺はチーム全体の底上げに成功し、2006年10月の第83回箱根駅伝予選会で早稲田大学を予選1位通過に導いた。20kmのコースを走る予選会ではレースの前半を抑える作戦を指示し、12人中10人の選手を50位以内でゴールさせている[62]。

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