江戸川乱歩の出身高校

江戸川乱歩 作家

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江戸川 乱歩(えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步、男性、1894年(明治27年)10月21日 - 1965年(昭和40年)7月28日)は、大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家である。また、戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮った。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所(ミリオン資料サービス)に勤務していた経歴を持つ。

本名は平井 太郎(ひらい たろう)。日本推理作家協会初代理事長。位階は正五位。勲等は勲三等。

ペンネーム(江戸川乱歩)はアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーに由来する。

1894年(明治27年)三重県名賀郡名張町(現・名張市)に名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれる(本籍地は津市)。平井家は武士の家柄で、祖先は伊豆伊東(静岡県)の郷士だった。のちに津藩(三重県)の藤堂家に仕え、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤めつづけた。

2歳の頃父の転勤に伴い鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)、翌年名古屋市に移る。(以降、大人になっても点々と引越しを繰り返し、生涯引っ越した数は46件にも及ぶ)小学生のころに母に読みきかされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、探偵小説に接した最初であった。中学では、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読した。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後早稲田大学政治経済学部に入学した。卒業後、貿易会社社員や古本屋、シナ蕎麦屋など多くの仕事を経る。

1923年(大正12年)、森下雨村、小酒井不木に激賞され、『新青年』に掲載された「二銭銅貨」でデビュー。初期は欧米の探偵小説に強い影響を受けた本格探偵小説を送り出し、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。特筆すべきことに、衆道の少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク、残虐趣味などの嗜好の強さがある。これらは岩田準一とともに研究していたという。これらを活かした通俗探偵小説は昭和初期から一般大衆に歓迎された。

乱歩は海外作品に通じ、翻案性の高い作品として『緑衣の鬼』、『三角館の恐怖』、『幽鬼の塔』などを残している。また、少年向けとして、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』などがある。このほか、探偵小説に関する評論(『幻影城』など)を残している。

戦後も乱歩は主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。同クラブに寄付した私財100万円の使途として江戸川乱歩賞が制定され、同賞は第3回より長編推理小説の公募賞となる。

晩年の乱歩は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。

1965年(昭和40年)7月28日、乱歩はクモ膜下出血のため70歳で没した。戒名・智勝院幻城乱歩居士。31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈される。8月1日、推理作家協会葬が行われた。

創作活動初期は、「D坂の殺人事件」、「心理試験」など、いわゆる本格派と呼称される短編を執筆し、日本人の創作による探偵小説(推理小説の意。1955年(昭和30年)頃まではこの呼称が一般的であった)の基礎を築いた。トリックや題材に欧米の諸作からの影響を感じさせるが、単なる模倣でなく乱歩の独創性が活かされている。

乱歩は探偵小説の本道というべき本格派を志向していたが、それらの作品は大衆からあまり評価されなかった。大衆は幻想・怪奇小説、犯罪小説に分類できる変格ものと称される作品を好んだ。「赤い部屋」「人間椅子」「鏡地獄」などが代表的な変格ものといえる。

1926年(大正15年)12月より1927年(昭和2年)2月までの約3ヶ月間、朝日新聞に『一寸法師』を連載する。病欠の山本有三の代役だった。作品は評判がよく、映画化された。しかし乱歩は小説の出来に満足できず休筆宣言をし、各地を放浪したという(以後、戦前の乱歩は「休筆中に放浪」というパターンが多くなる)。

1928年(昭和3年)8月、14ヶ月の休筆のあと、乱歩は自己の総決算的中篇「陰獣」を発表する。これは変態性欲を題材にした作品で、不健康とみなされた一方、横溝正史(当時の探偵小説の雑誌「新青年」の編集者)により「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛された。戦前の本格探偵小説の新時代を築いたといえる。「新青年」は「陰獣」を前後2回に渡り掲載したが、雑誌は増刷するほどで、当時の世評の高さがうかがえる。

通俗長編「蜘蛛男」を、かねてより執筆依頼のあった「講談倶楽部」に連載する。この作品は自身の趣向であった「エロ・グロ・猟奇・残虐趣味」を前面に押し出したものだった。作品は大好評で、これを契機として乱歩は続けざまにヒット作を連発させる。単行本は数十版を重ねた。これは探偵小説をポピュラーな地位に押し上げたといえる(通俗長編について乱歩は、黒岩涙香やモーリス・ルブラン、ポーなどから着想をえたと言っており、事実、そのような作品が多い)。

乱歩の通俗長編が大衆に歓迎された理由は、作品自体の面白さ以外に、時代的背景が影響していたといえる。金融恐慌の影響で、世間にはいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」といわれる退廃的気風が満ちていたのだ。これらの通俗長編は、初期作品に比べると破綻があり(乱歩自身認めている)、これがミステリの低俗化を招いたとする批判がある。評論家の権田萬治は、著書「日本探偵作家論」において、乱歩の長編は翻案など一部を除きほとんどがプロットに破綻をきたしていると述べ、作品としての完成度を批判している。一方、乱歩と長年親交のあった評論家中島河太郎は、1974年刊の小学館万有百科事典(ジャンルジャポニカ)において、低俗性を認める一方で、市場拡大の貢献を言及している。

1931年(昭和6年)5月、乱歩初の「江戸川乱歩全集」全13巻が平凡社より刊行開始された。総計約24万部の売り上げを記録し、経営の行き詰まっていた平凡社を建て直すきっかけになったという。

乱歩は執筆に関して、長編小説のプロットをまとめることが苦手だったという。多くの長編連載を場当たりで執筆し、筋の展開に行き詰まってしまうことがあった。ストーリー展開の行き詰まりから休筆を繰り返すこととなった。また、長編を作り上げるにあたり、程度の低いものを書いているという意識に苛まれていた。これも休筆の要因といえる。

とりわけ、探偵小説の本舞台である「新青年」に本格ものを書こうとして行き詰まった経緯がある。「悪霊」は1934年(昭和9年)1月号までに3回中断し、探偵文壇の不評をこうむった。これ以外に、木々高太郎、小栗虫太郎らの台頭により、乱歩は自分の時代が過ぎ去ったと感じ始める。

1935年(昭和10年)頃より、乱歩は評論家として広く活躍し始める。評論集「鬼の言葉」は、その最初の成果である。その一方で、1936年(昭和11年)初めての少年ものを執筆する。のちにシリーズ化される「怪人二十面相」を雑誌少年倶楽部に連載したのだ。この作品は少年読者の圧倒的支持を受け、乱歩のもとに多数のファンレターが来たという。以後、乱歩は創作レパートリーに少年ものを定期的に加わえるようになった。

日本が戦争体制を強化していくにしたがい芸術への検閲が強まっていったが、1937年(昭和12年)頃より、その度合いは強くなった。探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。一説では、内務省のブラックリストに乱歩の名が載っていたという。1939年(昭和14年)以降は検閲が激化し、無茶な削除訂正が頻発し、「芋虫」が発禁になっている。1941年(昭和16年)に入ってからは原稿依頼が途絶え、旧著がほぼ絶版になった。

太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)を書くようになった。

太平洋戦争中、抹殺されていた探偵文壇は、戦後、GHQの占領政策終了のもと復興し始める。乱歩は1949年(昭和24年)1月号より「青銅の魔人」(雑誌「少年」に連載)で少年ものを再開する。また、創作以外に活動の幅を広げ、評論や講演、探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)の結成を行う。特に評論の分野では、1947年(昭和22年)「随筆探偵小説」が上梓された。このほか1951年(昭和26年)に「幻影城」、1954年(昭和29年)に「続・幻影城」、1958年(昭和33年)に「海外探偵小説作家と作品」が上梓される。これらの評論集は、乱歩の優れた批評眼と洞察力がうかがえる探偵小説論・探偵作家論といえる。

一方、乱歩の旧著に関して、大衆は「本格もの」の探偵小説よりも「変格もの」の通俗スリラーを支持した。乱歩の本意である本格ものはあまり反響がなかった。同時期に多数発表された長編探偵小説の中で、戦後継続して再刊されたのは乱歩の作品だけである(空前のリバイバルとなった横溝正史ですら、戦前長編は1,2作を除けば一時的に再刊されただけ)。また、ミステリの枠に留まらず、怪奇・幻想文学において存在意義がある。猟奇・異常性愛を描いた作品は後年の官能小説に多大な影響を残した。

また、戦後に再開した少年探偵団シリーズは子どもたちから絶大な支持を受け、昭和30年代ごろから映像化された。戦後は雑誌「少年」の発行元だった光文社から「少年探偵江戸川乱歩全集」として全23巻が刊行された。乱歩最晩年の昭和39年頃から光文社は絶版となり、版権はポプラ社へ移動する。ポプラ社では、「少年探偵江戸川乱歩全集」として乱歩が児童向けとして書いた作品を全26巻で刊行し、更に乱歩の大人向けの作品を代作者が児童向けに書き直したものを続けて20巻刊行し合計全46巻の大全集となった。シリーズのほとんどで敵役となっている怪人二十面相は、推理小説に登場する架空キャラクターとしては、シャーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパン、明智小五郎、金田一耕助らと並んで、広く親しまれている。なお、戦後に発表されたものについては、戦前に大人向けに書かれた推理小説・怪奇小説を子供向けに翻案したものがあり他者によって翻案なされた影響で、明智小五郎など登場人物の性格が、乱歩自身の設定と異なっていることがあった。

戦後は、新人発掘にも熱心で、高木彬光、筒井康隆、大薮春彦など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。「宝石」編集長時代には、多くの一般作家に推理小説発表の場を与えている。代表的な作家に、歌舞伎評論家の戸板康二がいる。また、小林信彦を宝石社にスカウトし、『ヒッチコック・マガジン』の編集長に推薦している。

日本国外の推理作家との交流にも積極的で、エラリー・クイーンと文通してアメリカ探偵作家クラブ (MWA) の会員にもなったほか、フランスのイゴール・B・マスロフスキー、オランダのロバート・ファン・ヒューリック、W・G・キエルドルフ (nl) 、ソビエト連邦のロマン・キム (ru) 、韓国の金来成らと文通し、彼らを介して各国の推理小説事情を日本に紹介した。

晩年には、空想科学小説に興味を持ち、筒井康隆、矢野徹等、黎明期の日本のSF関係者に助力を与え、その商業出版に援助を惜しまなかった。1959年のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、クリスティを例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった。

全集は死後刊行されるのが一般的であった時代に、生前四度[※ 1]も全集が刊行された作家は、日本では分野を問わず他に存在しない。

内外から尊敬を込めて大乱歩とも呼ばれた。山田風太郎は、「『大乱歩』という言葉もある。ほかにも一世を風靡した作家や、大衆から敬意を表された作家や、芸術的にもっと高いものを書いた作家は多いのに、大の字を冠してこれほどおかしくない人も珍らしい」と書いている。

1919年に鳥羽造船所勤務時代に知り合った村山隆子と結婚。一人息子の平井隆太郎は心理学者で立教大学教授(のち社会学部長、現在は名誉教授)。「少年探偵」シリーズの著作権継承者でもある。孫の平井憲太郎は鉄道雑誌『とれいん』の元編集長である。

筆名は敬愛するアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーからもじったものである[※ 2]。

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