永田裕志の出身高校

永田裕志 スポーツ選手

永田裕志卒業高校
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性別
男性
生年月日
1968年4月24日生まれ

永田 裕志(ながた ゆうじ、1968年4月24日 - )は、千葉県東金市出身の、日本の男性プロレスラー。新日本プロレス所属。千葉県立成東高校、日本体育大学卒業。

父は千葉県立高校の校長兼野球部監督を務め、千葉県立成東高校では鈴木孝政、中村勝広らを指導した。妹であるネイルアーティストの永田貴子は、アメリカで開催されるネイルトレードショー・WINBAで1999年入賞、2000年優勝の実績を持ち、裕志はもちろん、弟である日本の総合格闘家の永田克彦のコスチュームデザインも行なう。ちなみに克彦は、シドニーオリンピックのレスリングで、銀メダリストに輝いている。新日本プロレスの試合でレスリングルールによる対戦もしている。また、父と同様に裕志と克彦も教員免許を持っている。ケンドー・カシンとはチームJAPANでユニットを組む等、特に仲がよい。カシンが大学院に合格した際には「東金デストロイヤー」なる覆面レスラーとして「祝福」に訪れた。現在プロレス界の各タイトルを獲得しながらも、「技をかけながら自ら白目を剥く」キャラを主として「現在、新日本プロレスで最も盛り上がるのが、永田が白目になった瞬間である(金澤克彦)」と言われるほどの人気を博しており、シリアスな試合展開ながらも「ひょうきんレスラー」として人気を博している。

1987年、千葉県立成東高等学校卒業後、日本体育大学に入学しレスリング部に所属。全日本学生選手権(1988年)および全日本大学グレコローマン選手権(1989年)で優勝を果たした。

1992年、全日本選手権優勝後、新日本プロレスに入門。同期には中西学、石澤常光(ケンドー・カシン)、大谷晋二郎らがいる。新日本に入門したのは馳浩の紹介。1992年9月14日山本広吉(現:天山広吉)戦でデビューを果たした。

1995年、新日本プロレスとUWFインターナショナルとの対抗戦に出場。グレコローマンの下地を生かしたファイトで桜庭和志らと激闘を繰り広げた。

1997年から海外武者修行としてWCWに遠征。1998年に帰国。同年、蝶野正洋の負傷による王座返上を受けて組まれたIWGPヘビー級王座決定戦に自ら本隊代表として志願し、nWo代表のスコット・ノートンと対戦するも、ノートンのパワーに圧倒されて敗れる。

1999年8月28日、神宮球場で中西と組んで、後藤達俊&小原道由を破り、自身初のタイトルとなるIWGPタッグ王座を獲得した。この頃にリングコスチュームを青いショートタイツとレガースにし、以後数度模様などをマイナーチェンジをするもののこのカラーリングで定着する。

2000年に中西、吉江豊、福田雅一と共にG-EGGSを結成、翌年まで活動する。2000年3月2日にはZERO-ONE旗揚げ戦へスポット参戦した。

2001年、「G1 CLIMAX」決勝戦で武藤敬司を破り、「G1」初優勝。同年10月8日には秋山準(当時プロレスリング・ノア所属)とタッグを組み武藤&馳組に勝利した。また、永田はこの試合をきっかけに新日本内でのスターダムを駆け上がっていくことになる。この年の12月31日、総合格闘技初参戦となったINOKI BOM-BA-YE 2001でミルコ・クロコップと対戦したが1R21秒左ハイキックを受け、レフェリーストップによるTKO負けを喫した。

2002年1月4日の新日本東京ドーム大会で、前年10月にタッグを組んだノア・秋山の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗れた。

2002年4月5日、安田忠夫を破ってIWGPヘビー級王座を奪取する。以降、2003年5月2日に高山善廣に敗退するまで、橋本真也の持っていた防衛回数9を更新する10度の防衛を果たした。

2003年6月6日、ノアの武道館大会に二度目の参戦を果たし、同大会で田上明から勝利を収めた。1ヶ月後の大阪府立体育会館大会で秋山とシングルで対戦し、ここでも勝利を収め、9月12日の武道館大会で小橋建太の保持するGHCヘビー級王座に二度目の挑戦を果たしたが、王座奪取に失敗した。

11月30日、ノア・北海道立総合体育センター(きたえーる)で棚橋と組んで、小橋&本田多聞を倒し、GHCタッグ王座を奪取。12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1分2秒左フックでTKO負けした。なお、イベント開催自体の開催が危ぶまれ、ヒョードル戦が決定したのが試合前日という混乱ぶりで、開催後も安田忠夫と永田のギャラが未払いとなり新日本プロレスが訴訟を起こすなどのドタバタがあった。永田はIWGPの防衛記録を持つなどのプロレスでの戦績と、アマチュアレスリングのバックボーンを持つことから大いに期待されたものの、2001年のミルコ戦に続く敗戦から、その後のプロレス業界の低迷も相まって「プロレス幻想を打ち砕いた」、「プロレス凋落の戦犯」などと批判・揶揄された。

2004年6月12日、全日本・愛知県体育館で、ケンドー・カシンと組んで、小島聡&カズ・ハヤシを倒し、世界タッグ王座を獲得する。3大メジャーのタッグを制覇したのはベイダー、高山善廣に続き3人目。

2005年1月、マッチメイクに異を唱え、新日本離脱を示唆する発言をする。3月、フロントとの確執の末ヒール転向を宣言。BNJに合流せず、1人で戦うことになった。その後、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之らとレスリング軍団「チームジャパン」を結成した。同年4月26日、前田日明がヒョードル戦の内容に苦言を呈したのに対し「ニールセン戦が悪いんじゃないが、ヒョードル戦とはジャンルが違うだろ。胸に手を当てて考えろ。」と発言。

2005年10月、長州力が現場監督として新日本に復帰した際、蝶野を中心とした反長州派が不満をぶつけるなか、中立を宣言する。長州に好意的な選手が少な過ぎるため、棚橋と共に長州とタッグを組まされ、半ばうやむやな形で中西とともに本隊に戻っている。12月11日、当時IWGPヘビー王者のブロック・レスナーと対戦し、敗北した。

2006年に入り、スポーツ新聞の取材時にバレンタインチョコをかじる、徳島での試合を控えて阿波踊りで挑発する、誕生日ケーキを食べながら指をしゃぶるといったコミカルなパフォーマンスを行なっていた。4月にはワールドプロレスリングで試合が放送される際、白目をむいて鬼気迫る表情をする姿に「鬼神」「キラー永田」とテロップが入った。5月の第2回NEW JAPAN CUPでは、決勝でジャイアント・バーナードに敗れ準優勝。中西がZERO1-MAXの大森隆男とタッグを組み、IWGPタッグに挑戦する話が出た際に、王者チームに返上させて自身と山本のタッグや他のタッグを加えてトーナメントを開催することを提案した。

2006年5月、個人事務所「ナガタロック」を設立し、8月4日にリラクゼーションサロン「enishing」を開店した。6月には内外タイムスでコラム『永田裕志のセカンドバッグ』の連載を始める。9月、三冠王者になった鈴木みのるを見て「鈴木にベルトを獲られたんだから全日本のレスラーはB級レスラー」と発言したが、当の鈴木のブログで「B級と言っていいのは俺だけだ。永田はC級」とやりかえされる。その後もタッグ戦で鈴木との抗争を展開し、2007年1月に三冠ベルトを賭けて対決するも、惜しくもスリーパーホールドで敗れる。

2007年3月、「NEW JAPAN CUP 2007」で優勝。4月13日、大阪・大阪府立体育会館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で王者・棚橋をバックドロップホールドで破り第46代IWGPヘビー級王者に返り咲いた。7月1日にはDRAGON GATEに参戦神戸ワールド記念ホールにてタケちゃんマンのコスチュームで入場しストーカー市川と対戦。9月9日、地元の千葉・東金アリーナで初の主催興業を行なう。10月8日、両国国技館で行なわれたIWGPヘビー級選手権試合で棚橋の挑戦を受け、31分5秒ハイフライフローから片エビ固めで敗北、棚橋がIWGPヘビー級王者に返り咲いた。

2008年1月4日、「IWGP3rdベルト」を賭けてカート・アングルと対戦するもアンクルロックにより敗退。

2008年2月17日、両国国技館で行なわれる予定の後藤洋央紀戦であったが、ウォーミングアップ中にめまいと左半身のしびれを訴え、リングドクターは脳梗塞の疑いがある判断。病院に搬送され試合は中止となった。精密検査の結果脳および頸椎に異常はなく、2008年2月27日に会見を行ない、病名は「高血圧から来る出血か、海綿状血管腫ではないか」と説明した。

5月からシリーズに復帰。10月13日、田中将斗を破り、ZERO1世界ヘビー級王座を奪取。2009年2月27日の大谷晋二郎に敗れるまで3度の防衛を果たした。

2009年2月15日、昨年脳内出血による体調不良で緊急欠場し実現できなかった後藤洋央紀と両国国技館で1年越しの対決を行い、最後はバックドロップ・ホールドで後藤を沈めた。4月5日には飯塚高史とチェーンデスマッチで対戦するがレフェリーストップで敗北。5月3日、飯塚とドッグカラー・チェーンデスマッチで再戦し飯塚をK.O.勝ちに収めた。

8月に行なわれたG1 CLIMAXでは毎試合、ご当地の球団のユニフォームで入場した。また、最終日にはイチローが着ていたワールド・ベースボール・クラシックのユニフォームを着て登場した。後に永田のブログでは「本物」だったと書き記されていた。

同年9月、平澤光秀、井上亘、スーパー・ストロング・マシンとともに青義軍を結成。12月5日には中邑真輔の持つIWGPヘビー級王座に挑戦するもボマイェで敗北を喫した。

2010年1月4日の東京ドームで行なわれたレッスルキングダムIVで元横綱・曙と「ブルーマウンテンズ」としてタッグを組み、TAJIRI・田中将斗組と対戦するも、曙もろともTAJIRIのグリーンミストを受け、最後は永田はTAJIRIのバズソーキックでピンフォール負けを喫してしまい、戦前の公約どおり地元の東金市で自ら銅像になる罰ゲームを受けることになった。

翌1月30日に後楽園ホールでは高橋裕二郎・内藤哲也のコンビ「NO LIMIT」とタッグを組み、TAJIRIとバットインテンションズのジャイアント・バーナード・カール・アンダーソン組による6人タッグマッチを行なうも、高橋のチャンピオンベルトによる攻撃に激怒したことで試合中にチーム内で亀裂が発生、いがみ合いの末にNO LIMITは試合放棄し、直後にTAJIRIからグリーンミストを受けて反則勝ちになった。

翌日31日のディファ有明で青義軍の井上と共にTAJIRI、飯塚と対決、TAJIRIのグリーンミストに対抗して毒霧「ブルーミスト」をTAJIRIに使い、反則負けになるも屈辱を晴らす。しかし、その後はTAJIRIのいないチームとの対決でも惜しみなくブルーミストを使うようになる。そして、2月14日にブルーミストを封印し、自らのストロングスタイルでTAJIRIとシングルマッチで対決、序盤と終盤で2度TAJIRIにグリーンミストを受けるも目の位置を変えることでこれを耐え抜き、腕折り以外で初めて白眼を向き仁王立ちをする「緑の大魔神」に変身。強烈な膝蹴りと投げっぱなしのバックドロップをお見舞いし、腕折りでギブアップ勝ちするも、セコンドの制止が入るまでの間、白目を剥きながらゴングとレフェリーの制止を無視して腕折りを仕掛け続けていた。

その後はTAJIRIとの戦いが無く、8月8日のG1 CLIMAX XXのスペシャルタッグマッチで矢野通の椅子攻撃で右膝を負傷していたTAJIRIとタッグを組み、CHAOSの飯塚とCHAOS入りしたNO LIMITの高橋のタッグと対戦。始めは2か月近くの抗争を根に持っていたため、TAJIRIに対して冷たい態度を示していたが試合中の飯塚と高橋による執拗な右膝攻撃を受けているTAJIRIを見かねて手をさしのばすようになる。

結局、試合はTAJIRIが飯塚に捨て身のグリーンミスト攻撃で反則負けするも、TAJIRIは飯塚からアイアンフィンガーフロムヘルを奪い、序盤での猛攻撃に対し一矢報いようとするも裕次郎に妨害されてしまう。しかし、直後に永田が高橋をブルーミストで撃沈させたことでグリーンミストとブルーミストの奇跡の競演を果たし、飯塚を羽交い絞めにしてTAJIRIのアイアンフィンガーフロムヘルによる飯塚への地獄突きに成功する。その後、2人で敬礼ポーズをとり、固く握手をして和解する。

2011年3月、NEW JAPAN CUPに出場し優勝する。4月、全日本プロレスに参戦し、チャンピオン・カーニバルに初出場。決勝で真田聖也を下し、優勝を収め、両メジャー団体春の祭典を制覇する快挙を成し遂げた。

6月18日、大阪大会のタッグマッチに勝利した直後、プエルトリコから帰って来た青義軍の盟友、ヒデオ・サイトーに襲撃を受け、バックステージで「嘘だと言ってくれ…夢だと言ってくれ…」と落胆の声を漏らし続けた。その翌日、盟友の裏切りで落胆している中、全日本に参戦し、諏訪魔の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦するも、諏訪魔のバックドロップに敗れた。

8月のG1 CLIMAXでは優勝戦線に食い込む活躍を見せていたが、最終戦のヒデオ・サイトー戦でピンフォール負けを喫し、予選落ちに終わった。9月19日神戸大会でヒデオと対戦し、バックドロップホールドで雪辱を晴らし、試合後にヒデオが平澤に戻りかけたところを矢野通に襲撃され、台無しにされてしまった。

10月10日、矢野と対戦。試合中、矢野が鋏で野上慎平アナの髪を切ろうとするがそれを永田が阻止する。最後はリバースナガタロックⅢを繰り出すと返盃で再び返されるが、それを逆に丸め返して勝利した。全試合終了後、IWGPヘビー級王座を保持する棚橋に挑戦表明を行うも、矢野のベルト強奪という暴挙に見舞われ、挑戦表明が流れてしまう。

11月12日大阪大会、棚橋と矢野のIWGP戦終了直後、負けたにも関らずふてぶてしくベルトを持ち逃げしようとした矢野を花道で迎撃。ベルトを奪い返し、棚橋に返却すると改めて挑戦表明を行い、棚橋がこれを承諾したことで10月に成立しなかったIWGP挑戦が正式に決まる。12月4日、IWGPヘビー級選手権に挑戦。30分以上にも及ぶ死闘を繰り広げるが最後は、棚橋のハイフライフローで敗北する。

2011年度年間プロレス大賞にて、NJC・チャンピオンカーニバルを二冠優勝し、「春男」の名を欲しいままにしたた功績とアンチエイジングを目標に掲げての元気溌剌なファイトスタイルが認められ、敢闘賞を受賞した。

2012年1月4日のレッスルキングダムIVに24年振りに新日本に参戦する船木誠勝とタッグマッチで激突(永田のパートナーは井上亘、船木のパートナーは河野真幸)。試合終了直後、試合中に顔面(左目)への膝蹴りを受けたことに憤慨した船木の挑発に激怒、殴り合いの乱闘となった。

2月3日、東京ドーム大会での永田の膝蹴りで左目を負傷し、半年間の長期欠場が決まった船木の仇討ちを直訴してきた「STACK OF ARMS」河野の挑戦を受け、全日本プロレスのリングでタッグマッチを行った。河野のパートナーの田中稔をバックドロップホールドで勝利を収め、全日本のリングでナガダンスを披露する。

その後、河野とシングルマッチで対戦するも、両者リングアウトで試合が終わり、その後、延長戦が行われるも永田のレフェリー無視が原因で起きたセコンド陣の乱入・乱闘で無効試合と不透明決着となる。3月4日、後楽園大会で再び河野と全日本プロレスのリングで、シングルマッチで対戦。今度は、場外カウントなしの決着戦で、リバースナガタロックⅢで勝利。3月20日、両国大会で河野と完全決着となるシングルマッチで対戦。今度は、ギブアップ・KOのみの、金網戦となり、最後はバックドロップで、KO勝ちを収めた。

11月、プロレスリング・ノアの開催するグローバル・リーグ戦に出場、開幕4連勝と健闘するも最終日の森嶋猛戦に敗れリーグ敗退に終わる。敢闘賞を受賞した。

2013年1月4日、レッスルキングダム7の舞台で因縁の相手である鈴木と対戦、バックドロップホールドで勝利した。

その後、昨年9月よりフリーランスとして新日本に参戦している桜庭和志に目をつけ、4月7日両国大会で後藤をパートナーに桜庭、柴田勝頼組と対戦。ところが、試合終盤に放ったバックドロップを桜庭が上手く受け身を取れずにマットに着地。右肘の関節が不自然に曲がっていたことからレフェリーが試合を止めさせ、レフェリーストップ勝ちを収める。桜庭は「右肘関節脱臼」と診断され、長期欠場となってしまった。

6月22日、脱臼から回復した桜庭から復帰戦の相手として名指しで逆指名され、これを受諾する。7月20日秋田大会、地元での復帰戦となった桜庭とシングルマッチで初対決。最後は腕ひしぎ逆十字固めで捕えられてしまい、ギブアップ負けを喫した。

その後、桜庭とは9月29日の神戸大会でもタッグマッチで対戦したが、10月14日の両国大会で来場したグレイシー一族の挑発を受けて意気投合しタッグを結成。その後、11月9日の大阪大会では矢野、飯塚組と対戦し、勝利を収めた。

11月10日 二年連続出場となるグローバル・リーグで優勝しメジャー3団体全てのシングルリーグを制覇するという偉業を成し遂げた。

1月4日、レッスルキングダムにおいて、桜庭とタッグを組み、ダニエル・グレイシー、ホーレス・グレイシー組と対戦。ダニエルに道着での首絞めを受け反則勝ちとなった。

2月8日、ノア後楽園ホール大会で森嶋を破り、新日本プロレス所属選手としては初のGHCヘビー級王座を戴冠した。

2月11日、THE NEW BEGINNING大阪大会において、永田、桜庭対ダニエル、ホーレス組のリマッチが行われた。今回はプロレス対柔道の異種格闘技ルールとしてオープンフィンガーグローブでのパンチおよびチョークスリーパー、道着での首絞め有効の特別ルールで行われる。試合は桜庭がホーレスに道着でのチョーク攻撃を受け敗れた。

7月5日、丸藤正道に敗れ、GHCヘビー級王座から陥落した。

1月4日、レッスルキングダムにおいては第0試合ニュージャパンランボーに出場し優勝。

1月5日、後楽園ホール大会において中邑の持つIWGPインターコンチネンタル王座への挑戦を表明した。

2月14日、仙台サンプラザホールにてIWGPインターコンチネンタル王座をかけて中邑と闘う。追い詰めるも、ボマイェで惜敗する。

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