椎名林檎の出身高校
椎名林檎 ミュージシャン
- 椎名林檎卒業高校
- 筑前高校 偏差値 福岡県高校偏差値ランキング
- ミュージシャンランキング
- 452位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
- 性別
- 女性
椎名 林檎(しいな りんご、Sheena Ringo、1978年11月25日 - )は、日本のシンガーソングライター。有限会社黒猫堂所属。レコードレーベルはEMI Records Japan(ユニバーサルミュージック)。2004年から2012年まではロックバンド・東京事変のボーカリストとしても活動していた。2009年、平成20年度芸術選奨新人賞(大衆芸能部門)受賞。
シンガーソングライターの椎名純平は実兄。イラストレーター、ブックデザイナーの辰巳四郎は叔父。またその娘であるイラストレーターの藤森玲子はいとこにあたる。
埼玉生まれ、静岡・福岡育ち。「椎名林檎」としてのプロフィール上は音楽活動を始めた福岡の出身となっている。
「椎名林檎」という芸名は、高校1、2年生の時、「ここでキスして。」「ギブス」「茜さす帰路照らされど」「虚言症」などの作品を初めてJASRACへ著作者登録をする際に筆名が必要となり、あくまで一時的なつもりで使用したのが始まりで、なぜ「林檎」と命名したかについては、自身のバンド活動もドラマーから始まったということもあってビートルズのドラマーだったリンゴ・スターの名前を借用したと語っている。また名前が人の名前とは思えない、物体そのものを表すものだということについては、漫画家の吉田戦車のペンネームからの影響があると語っている。もともとの由来は、子供の頃はかなりの恥ずかしがり屋で、学校で先生に指されるとすぐほっぺたが真っ赤になってしまっていたから。
デビューからしばらくの間標榜していた「新宿系」については、「取材などで常に『(ジャンルは)何系?』と聞かれるのが面倒くさいので口から出まかせを言った」などと答え、またその定義についても「本当は意味などなかったが何か理由づけしないと悪いと思って聞かれたことに対して一生懸命答えたのだろう」と明かしている。
トレードマークだった左の口元のほくろについては、「小学校時代に女優の沢口靖子やマドンナのように口元にほくろのある女性に憧れてペンで書いていたら本物になった」という噂を本人が肯定しており、また2003年に手術で除去したもののその後再び近い場所に新しいほくろが出来てしまったとも語っている。
デビュー当時からすでにシーナ・リンゴ名義で広末涼子やともさかりえに楽曲提供を行っている(別項参照)。
歌詞の旧仮名遣いや旧字体の使用などのせいで読書家だと思われがちだが実はそうでもなく、本人曰く「よく読んでいるのは辞書」とのこと。その旧仮名遣いも自分の美意識に沿ったものを優先し、必ずしも正規のものではない。
ボーカリストとしてはロックンロールからジャズにヒップホップまでこなすジャンルを問わない柔軟さを持ち、それ以外にもギターや鍵盤などの各種楽器の演奏や作編曲までこなすなど、音楽家として高度な汎用性を誇る。
作曲について、自身では「自分は旋律(メロディ)と和声(ハーモニー)の関係性にこそ常に関心を持つべきだ」と思っている。アレンジが違っても成立するよう、例えばスーパーなどでかかるMIDI音源のインストのようにまっさらな状態で聴いた時にいかに光るものを書いておくかが自分にとっては大事だと思っているので、ビートや音色に触発されてサウンドの方から組み立てていくアプローチは極力しないようにしている。
デモを作る段階で編成のボリュームを決め込むので、レコーディングでそれを生楽器に置き換えた時にそれぞれのプレイヤーからのプラスアルファによって元の音数が減ることはあっても増えることはほとんどない。しかしあまり細かい部分まで決め込んでしまうとプレイヤーの演奏を縛ってしまうので、デモの段階では最低限のものを渡している。とはいえ、皆フレーズやリフはデモのままやってくれることが多いという。
J-POPよりも阿久悠やなかにし礼のような職業作詞家たちが書いていた昭和の歌謡曲に慣れ親しんできたせいか、「歌には上手い下手などなくて『歌になっているかなっていないか』があるだけなのではないか」と思っている。
作家としては宇崎竜童・阿木燿子夫妻のコンビに憧れていて、その二人の形を1人2役でこなすのが一生の夢だという。
井上陽水、チューリップ、海援隊、甲斐バンドらを見出した元RKB毎日放送の音楽プロデューサー野見山實は、デビュー前の椎名の詩集を見て詩の発想と着眼点、展開が凡人とは異なると感じ、曲については作品の中にジャズやシャンソンなどを取り入れた同年代の若い作家にはあまり例をみない発想があると評している。
クラシック好きでジャズやポピュラー・ミュージックへの造詣も深い父親と古い歌謡曲が好きでバレエ経験のある母親の間に生まれ、音楽的環境に恵まれた家庭に育つ。音楽的原体験はドビュッシーのピアノ曲。バレエやピアノを習っていた影響で幼少期にはクラシック音楽を好んでいたが、ピアノ曲以外はあまり好きではなく、交響曲でもバレエ音楽ばかりを聞いていた。歌のある曲にはほとんど興味がなかったが、父親の影響でザ・ピーナッツは好きだった。小学生の頃は、映画『風の谷のナウシカ』のサウンドトラックや母親の好きだった五輪真弓、太田裕美、朱里エイコ、大塚博堂、寺尾聡、来生たかお、ペドロ&カプリシャス、長谷川きよしのような古い歌謡曲、そして父親の好きだった渡辺貞夫やビリー・ジョエルおよびニーナ・シモン、サラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルドなどの女性ジャズ・ボーカリストを好んで聞いていた。中学生になると、兄の影響でモータウンやソウル・ミュージック、R&Bなどのブラック・ミュージックに傾倒するようになり(フェイバリット・アーティストはマーヴィン・ゲイ)、邦楽をまったく聞かなくなった。高校に進むとBLANKEY JET CITYをきっかけに日本語の歌詞を受け入れて再び邦楽も聞くようになり、洋楽ではレディオヘッドやビョークを聞いていた。セックス・ピストルズには音よりもビデオなど映像の方で影響を受け、音として多く聴いていたのはレッド・ホット・チリ・ペッパーズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、パール・ジャムなど。高校を辞めた後は感覚が昔に戻ったのか、改めてトッド・ラングレンやレッド・ツェッペリン、ビートルズなどを聞き直していた。
ボーカリストとしてはフェアーグラウンド・アトラクションのエディ・リーダーに憧れていたが、声質がまるで異なることを自覚していたので、同様に好んで聞いていたジャニス・イアンを目指すことにした。
2001年からの休業は一般的には産休だと思われていたが、実際は引退して家庭に入ろうとしていた。しかし契約やその他諸々の義務を果たすためにカバーアルバムを出したところ、周囲から音楽活動の継続を求められることになった。だが当人はそのままでは続けるモチベーションが見いだせなかったので、バンド・東京事変を結成することにした。未知の相手と仕事をすることである程度の縛りを自分に与えるためであった。
その当時、海外リリースの話も来ていてヴァージン・レコードのレーベルにも呼ばれたが、自分自身はやめようと思っているのに周りの人々が熱を帯びていく様子がいたたまれなかったという。ヴァージンのスタッフらは彼女がやっていることをストレートに受け取ってくれたが、当時の日本の状況ではどんな曲を作っても深読みされたり意図しない方向に受け取られたりしたので、それらのことに疲れて果てたのがやめようと思っていた理由であった。
1978年、埼玉県浦和市(現・さいたま市)生まれ。身体に栄養を吸収できない異常(先天性食道閉鎖症)を持って産まれたために生後すぐに新宿区の慶應義塾大学病院まで搬送され、2日間にわたる大手術を受ける。外資系石油会社に勤める父親の転勤により2歳のとき静岡県清水市(現・静岡市清水区)に移り住み、約10年間を過ごす。4歳の時に祖母に頼んでピアノを始める。1990年、11歳(小学6年生)の時に父親が福岡支店の勤務となり、福岡県福岡市早良区へ引越す。それから高校中退後のフリーター時代までの約7年間が福岡育ち。幼少時からピアノとクラシック・バレエを習うが、幼児期に受けた先天性食道閉鎖症の手術の後遺症で次第に体の左右均等に力を入れることができなくなり、10年以上続けていたバレエとピアノを断念したという。
中学時代、友人とバンドを結成して学園祭などで何度か演奏するも解散。高校に進学すると軽音楽部に入部、いくつものバンドを掛け持ちしてさまざまな楽器を担当する。軽音部のバンドはコピー・バンドが多かったので、洋楽・邦楽問わずコピーばかりを演奏していたが、次第に自分で曲を作るようになる。そして学内だけでなく学外の友人ともバンドを組むようになり、ライブハウスでも演奏するようになる。
1994年、高校一年生の時にホリプロタレントスカウトキャラバンに出場。
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