森保一の出身高校
森保一 プロサッカー選手
- 森保一卒業高校
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- プロサッカー選手ランキング
- 177位 / 814人中 プロサッカー選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1968年8月23日生まれ
森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、日本の元サッカー選手(MF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。公式的な資料での出身地は長崎県長崎市。長崎日本大学高等学校卒業。元サッカー日本代表。
現Jリーグ所属のサンフレッチェ広島の監督を務める。
父親が造船関係者だったため幼少期から各地を転居、静岡県掛川市で生まれ、名古屋市、横須賀市、唐津市と転居、唐津市立鏡山小学校に入学するもすぐに転居し、小学1年生から長崎県長崎市に定住する。
小学5年から本格的にサッカーを始め、小学6年の土井首SSS時代に全日本少年サッカー大会にGKとして出場している。長崎市立深堀中学校から高校進学の際にサッカー強豪校である長崎県立国見高等学校に進学しようと考えていたが、森保の不真面目な受験姿勢を見た父親はそれを反対したため、長崎日本大学高等学校へ進学した。長崎日大高時代には攻撃的なMFとして山梨国体選抜に選ばれるが、当時長崎県のサッカーは国見と長崎県立島原商業高等学校が全盛期だったことから、選手権などの全国大会には出場できなかった。
高校の監督と日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(現サンフレッチェ広島)の今西和男総監督が知り合いだったため、1987年同クラブ入団。同期は河村孝らがいたが森保は入団当初はその中で最下位の評価だった。当時マツダ本社は高卒採用枠5人までであったため森保は本社に入社することが出来ず、子会社のマツダ運輸(現マツダロジスティクス)に勤務した。当初はサテライトチームであるマツダSC東洋でプレーしていたが、この年からマツダ監督に就任したハンス・オフトに見出された。その後チームは2部に降格しオフトは退団したが、ビル・フォルケスコーチに育てられ、3年目の1989年にJSL2部デビュー、風間八宏のアシストで先制点および2点目を挙げる。1991年にマツダとプロ契約を結び、同年JSL1部昇格に貢献した。
1992年4月、オフトが日本代表監督に就任すると日本代表に初招集される。代表メンバーの何人かは存在自体知らなかった無名選手の大抜擢で、同チーム所属の高木琢也と前川和也以外誰一人「モリヤス」と読めなかった。同年5月オフトジャパン初戦のアルゼンチン戦で先発メンバーに抜擢され初出場を果たし、この際アルフィオ・バシーレ監督とクラウディオ・カニーヒアが“日本にはいいボランチがいる”と高く評価したことから、「森保」と「ボランチ」の名前が脚光を浴びることになる。以降レギュラーとして活躍、ラモス瑠偉をカバーすることに重点を置いた。1993年、W杯アメリカ大会アジア予選に出場し、ドーハの悲劇を経験した。
一方クラブチームでは、1993年にJリーグが開幕するとサンフレッチェ広島の選手としてプレー、スチュワート・バクスターの下、風間とともに中盤を支え、1994年サントリーシリーズでは広島のステージ優勝に貢献した。1995年に就任したビム・ヤンセン監督時代は3-4-3システムのボランチやトップ下・リベロとさまざまなポジションでプレーするものの、同年7月に右足首関節脱臼骨折してしまい満足に活躍できなかった。代表では、ファルカン時代および加茂周時代も選出されたが、山口素弘がボランチに定着したため1996年2月を最後に代表から遠ざかった。
1997年末、広島は経営悪化がピークに達し、主力放出を余儀なくされた。そこへ、1998年にオフトに誘われ、大型補強を行っていた京都パープルサンガにレンタル移籍した。当初は完全移籍の方向で話を進めていたが、広島サポーターが怒り、移籍反対署名を集め、その結果レンタル移籍に変わった経緯がある。移籍後、京都は低迷し監督は清水秀彦に代わったが、引き続き主力としてチームを支えた。
翌1999年広島に復帰、同シーズンに広島の選手としては初のJリーグ通算200試合出場達成。ただ、元々エディ・トムソン監督からの評価は低く、また森崎和幸の台頭で先発メンバー入りできなくなった。2001年ヴァレリー・ニポムニシに監督が代わるも、ケガのため満足な出場は叶わなかった。
2002年広島からスタッフ転進のオファーを受けるも、現役にこだわり清水秀彦に誘われベガルタ仙台に移籍した。主力として活躍したが、2003年のJリーグシーズン末に仙台はJ2に降格、自身も戦力外通告を受け、2004年1月に正式に現役引退を表明した。
2004年、サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任、同年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得。
2005年2月、吉田靖監督の下、U-19サッカー日本代表コーチと兼務し、2006年11月にAFCユース選手権2006にU-19日本代表コーチとして準優勝、2007年のFIFA U-20ワールドカップにもコーチとして参加した。
同年9月からミハイロ・ペトロヴィッチ率いるサンフレッチェ広島トップチームコーチに就任。2010年から黒崎久志率いるアルビレックス新潟ヘッドコーチに就任した。
2011年末、広島は経営状況の悪化からペトロヴィッチとの契約延長を断念し、次期監督を探すことになる。その中で、ペトロヴィッチのサッカーを継承および調整し、広島の現状のクラブ方針を把握しているOBを登用することになり、その中で森保の名前が挙がることになった。2012年からは古巣のサンフレッチェ広島に復帰し、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった。同シーズン、日本人元Jリーガーの監督としては初であり、日本人新人1年目監督としては松木安太郎以来2人目 となるJ1年間優勝を、翌2013には松木(V川崎)・岡田武史(横浜FM)およびオズワルド・オリヴェイラ(鹿島)以来4人目となるJ1連覇を達成した[49]。
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