松浪健四郎の出身高校
松浪健四郎 議員
- 松浪健四郎卒業高校
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- 709位 / 885人中 議員別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1946年10月14日生まれ
松浪 健四郎(まつなみ けんしろう、1946年10月14日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(3期)、自由民主党副幹事長を歴任。
大阪府立佐野高等学校、日本体育大学、日本大学大学院文学研究科修了。現在は、日本レスリング協会副会長、日本アフガニスタン協会理事長、学校法人日本体育大学理事長。
実甥の松浪健太も衆議院議員。また、実兄の松浪啓一は大阪府議会議員であったが、収賄事件により辞職している。
大阪府立佐野高等学校、日本体育大学体育学部武道学科(一期生)卒業。日本大学大学院文学研究科博士課程満期退学。元専修大学教授。
1996年に新進党から衆議院議員に初当選し、同党解党後は自由党の結党に参加。さらに自由党が分裂すると、自由民主党との連立継続派で結成された保守党に加わった。
2000年11月、加藤の乱で揺れていた森内閣不信任決議案で保守党を代表して反対討論を行っている最中、民主党議員から野次られたことを理由に、国会の壇上から当時民主党の議員であった永田寿康に目掛けてコップの水を浴びせた。水かけの直後、抗議する野党議員が一斉に演壇に押しかけ大騒ぎとなり、あまりの音量に松浪は耳をふさぎながら早口で草稿を読み上げ演壇から降りた。松浪はこの場では議場からの退場処分を下された。この行為は当時大きな話題となり、後日懲罰委員会より25日間の登院停止を受けた。ただし、馳浩は「水は撒いたが誰にもかかってはおらず、コップ自体は投げていない(投げれば除名となる)」ことを理由に、計算されたパフォーマンスであったと推測している。
2002年、保守党から改称した保守新党にそのまま参加。
2003年11月9日の第43回衆議院議員総選挙で落選。
2004年3月30日、前年の選挙での公職選挙法違反の疑いで当時の私設秘書3名と共に書類送検された(下記参照)。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では再び髷(まげ)を結い直し、自民党の公認と公明党の支援を受けて小選挙区と比例代表区に重複立候補した結果、小選挙区では前職の長安豊に及ばず落選したが、比例近畿ブロックで当選し、国政に復帰した。派閥は二階グループに所属し、自民党副幹事長を務めた。
また、2007年5月9日放送の「報道ステーション」(テレビ朝日)で、国民投票法案をめぐる自民党衆議院議員・葉梨康弘の国会答弁を恣意(しい)的に編集したとして、訂正放送を求めた。これに対しテレビ朝日側はいったんは「虚偽報道ではない」と反論していたが、14日放送の同番組で、「(報道の)表現が不適切で、視聴者に誤った印象を与えかねないところがあった。おわびします」と謝罪した。
2007年8月29日、文部科学副大臣に任命される。
2008年8月から、自民党外交部会長に就任。
2008年11月、泉佐野市内に貼られていた松浪の選挙用ポスターに落書きをしていた82歳の男を松浪自身が羽交い絞めにして、泉佐野署員に引き渡したと報じられた。男性は6年間、選挙区内で松浪のポスターに差別的な落書きを繰り返していた。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙に自民党の公認と公明党の推薦を受けて小選挙区と比例代表区に重複立候補した結果、小選挙区では前職の長安豊に惨敗し、さらに惜敗率も低かったために比例代表区でも落選、議席を失った。
2010年6月26日、毎日新聞の参院選候補者アンケートでは「選択的夫婦別姓制度」に対し「反対」と回答した。
2010年7月11日に行われた第22回参議院議員通常選挙に自民党の比例区から出馬するも落選。
2011年6月8日、学校法人日本体育会理事長に就任。
2012年11月、日本体育大学の北朝鮮スポーツ交流の団長となり、北朝鮮に渡航。
2013年11月、再度スポーツ交流団の団長として北朝鮮に渡航。北朝鮮の張成沢国家体育指導委員会委員長らと会談した。張は12月12日死刑となり、松浪は同時期に訪朝したアントニオ猪木と共に、生前に張と公的に接触した最後の日本人の一人となった。張とは2012年にも会談しており、処刑の報を聞いて「温厚なやさしい人だった。日本に好感を持っていただき、お互いスポーツ交流を進めていただけに残念です。今後、張氏に代わる(日朝の交流を進められる)人が出てくるのか。今の時点では全く分かりません」と言った。
1997年から1998年の11ヶ月間、暴力団組員が会長として実質的に経営する大阪府貝塚市の建設会社に、松浪が私設秘書の給与275万円を肩代わりさせていたとして問題になった(しんぶん赤旗、毎日新聞では献金額は250万円となっている)。秘書給与の供与が始まった経緯について、松浪は「応援してほしいと言われ甘えてしまった」、会長は「秘書一人面倒を見てほしいと頼まれた」としている。
この問題について松浪は、会長が暴力団関係者とは知らなかったと主張している。しかし、会長が暴力団組員だと認識した後も2ヶ月間給与を肩代わりさせていた事実や、その後も、1998年3月に府営住宅解体工事を巡る談合容疑で会長が逮捕された直後まで、暴力団関係者と認識しながら関係が続いていた事実が判明している。
また、この秘書給与は政治資金規正法上「寄付」として届けなければならないが、松浪は届け出の義務を知りながら、会長との間に公表しないという約束があったので届け出なかったと説明している。更に、秘書給与275万円の他に、この建設会社などの呼びかけで開かれた地元業界団体の当選祝賀会で200万円の寄付を受け取っており、この寄付も秘書給与同様、政治資金収支報告書へ記載していなかった。
この問題は大きく報道され、松浪に辞職を求める声が高まった。これに対し、トレードマークの後ろ髪を切り、オールバックにすることで責任を果たした事をアピールしたが、辞職については拒否した。
この問題について、松浪はのちに自身のホームページで「元暴力団員が人間でないかのような報道ぶりは人権問題」「元暴力団員の妻だった人(注・大平光代)が大阪市助役に就任すると賛辞を贈るのに、自分への献金は犯罪行為のように扱う」と怒りをあらわにしている。
2003年の衆議院選挙で、選挙区内の有権者に線香を贈ったとして、松浪と私設秘書ら計4人が公職選挙法違反容疑(寄付行為の禁止)で書類送検された。
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