松本竜助の出身高校
松本竜助 お笑い芸人
- 松本竜助卒業高校
- 都島工業高校 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
- お笑い芸人ランキング
- 224位 / 407人中 お笑い芸人別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1956年4月6日生まれ
松本 竜助(まつもと りゅうすけ、1956年4月6日 - 2006年4月1日)は、日本のお笑いタレント。本名、松本 稔(まつもと みのる)。徳島県出身。大阪市立都島工業高等学校卒業。
大阪市立都島工業高等学校を卒業後、大手食品会社の味の素ゼネラルフーヅ(味の素グループ)に就職しサラリーマンとなったが、早々に退社し、京都花月の舞台裏方として芸人修行に入る。
1977年、松本竜介の名前で島田紳助と共に漫才コンビ「紳助・竜介」を結成した。紳助が明石家さんまと組もうとして断られ紹介されたのが竜介である。(ただし、島田紳助著『自己プロデュース力』にはさんまに断られたという記述はない)「松本竜介」は西川のりおが命名した芸名である。結成当初、紳助を「この男なら漫才をやりたい。どこまでそう思えるか。それが大事や。」と語っている。
漫才ブームの波に乗り、吉本興業の看板芸人一員として一世を風靡する。駆け出しの頃から女遊びが激しく、当時関係を持った女性は300人を軽く超えるといわれた。1980年に結婚を発表しているが、夫人も女遊びの末に手に入れた夫人である。1983年には芸名を竜助に改名。しかし、人気絶頂期の1985年に紳助の意向でコンビを解散。その後吉本を去り、新たな相方と「竜助 ポン太」というコンビを組むが、売れずにほどなくして解消する。その後、紳助がトラブルを起こした際に、竜助が間に入ったエピソードもある。
その後、映像制作会社を起業し、タレント活動も続けるが、1996年頃より吉本興業と疎遠になり、1998年に、喫茶店、アダルトビデオ製作などの副業失敗で1億3000万円の借金を抱え、自己破産した。破産管財人は、淀屋橋合同法律事務所の阪口彰洋弁護士であった。自己破産を理由に吉本からはほぼ絶縁状態になる。
自己破産後、後輩である河内家菊水丸に弟子入りして河内家ピンポン丸(高校時代卓球部に在籍していたことが命名の理由)の名で芸能界復帰を図るが、トチリ(無断欠勤)を続けた結果破門され、その後は『借王』などの映画に端役で出演したものの、芸能活動も休止状態となる。
晩年は名古屋の風俗レポーター、大阪ミナミの風俗案内所長などの職を転々とし、大阪の歓楽街で話題になっていた。また、M-1グランプリの予選では息子と出場したが、敗退した。2004年には、暴行事件の影響で芸能活動を謹慎していた元相方の紳助を毎日のように励ましていたという。50歳になったときの記念に2006年に紳助との復活漫才を披露する計画もされ、ツナギ衣装も用意されていたという。
2006年3月22日、案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。49歳没。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い。救急車を呼んで欲しい」であった。風俗案内所での仕事はほとんど休みがなく、その多忙ぶりが脳内出血の遠因と言われている。奇しくも死去当日は相方である紳助が司会を務めるオールスター感謝祭の生放送の日であった。その生放送前に、会見を開いた紳助は、元相方の死を沈痛な表情で語っていた。そのような状況の中においても、紳助は悲しみをこらえながら、当番組の司会を無難にこなしていた。通夜には滅多に通夜に参列しない明石家さんまが参列していた。その3日後の4月3日、大阪市北区長柄西の大阪北玉泉院で行われた葬儀・告別式には、かつて所属していた吉本興業の関係者や所属芸人、ファンなど約500人が弔問に訪れた(元相方の島田紳助は仕事により参列していない)。弔辞はB&Bの島田洋七が読み上げた。出棺の際、西川のりおは「竜助! これがお前の最後の舞台やぞ! お前のためにいっぱい(弔問に)来てはるで」と絶叫しながら泣き崩れた。霊柩車のクラクションが鳴った際、竜助が眠る棺を担いだ、西川きよし、B&B(島田洋七、島田洋八)、ぼんちおさむ、のりお・よしお(西川のりお、上方よしお)、オール巨人、大平サブローが霊柩車の前に整列して「竜助ぇ!」と見送った。のりおが「竜助ーっ」と22回絶叫した。竜助が眠る棺は大阪市立北斎場で荼毘に付された。
2007年4月1日一周忌にあたるこの日、「緊急特番今日は松本竜介の一周忌やねん!」というタイトルの番組がフジテレビで放送された。内容は生い立ち・漫才師として活動していた時代・「オレたちひょうきん族」で脚光を浴びていた頃をVTRで振り返る物だった。
※コンビでの出演作は島田紳助・松本竜介の項を参照のこと。
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