松本安市の出身高校

松本安市 スポーツ選手

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生年月日
1918年(大正7年)5月15日生まれ

松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月15日 - 1996年(平成8年))は、日本の柔道家。段位は8段。

昭和天覧試合(1940年)準優勝者、第1回全日本柔道選手権大会(1948年)優勝者であり、後に天理大学や1964年東京オリンピック柔道日本代表の監督を務めた。

福岡県久留米市に生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。

1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる[注釈 1]。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで阿部謙四郎らに鍛えられたほか、大外刈の打ち込みで松の木を枯らすほどの鍛錬を重ねた[注釈 2]。その甲斐もあり、復帰後の1940年には昭和天覧試合(府県選士の部)に出場して準優勝という成績を残し、同年の第1回全日本学生柔道選手権では栄えある初代チャンピオンに輝いた。

1941年になっても勢いは衰えず、4月に現在の全日本選手権の前身となる日本選士権(一般の部)、6月に全国選抜選手権と立て続けに制し、柔道界においてその地位を不動のものとした。その後1944年にも全日本選士権で優勝。

終戦後は福岡県警察に属し、福岡県柔道協会の結成を記念して1947年7月1日に開催された西日本柔道選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは木村政彦5段(熊本)と吉松義彦5段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で縦四方固に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は一本背負投で吉松を宙に舞わせた木村)、団体戦では福岡県の優勝に貢献した。

1948年5月2日に開催された第1回全日本選手権では、準決勝で吉松義彦6段を破り、決勝では武専の先輩にあたる伊藤徳治6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾った。翌49年には全国警察選手権で優勝。

全日本選手権にはその後1953年の第6回大会まで続けて出場するも、1949年は初戦で伊藤徳治7段に、1950年は3回戦で石川隆彦7段に、1951年は3回戦で醍醐敏郎7段に、1952年は3回戦で山本博6段に、1953年は4回戦で吉松義彦7段にそれぞれ敗れ、2度目の優勝はならなかった(段位はいずれも当時)。

1956年の第1回世界選手権の代表決定戦に38歳で出場し、吉松義彦に敗れて引退。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を戦争・兵役で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。

1953年、天理大学柔道部設立と共に初代師範に就任。3年目には同大学を全日本学生優勝大会で優勝に導いたほか、アントン・ヘーシンクや出稽古に来ていたウィレム・ルスカらを、体で覚えさせる、いわゆるスパルタ教育で指導し、後の世界チャンピオンにまで育て上げた。1958年7月には全日本学生優勝大会の際に審判に暴行を働いたとして、全日本学生柔道連盟役員の座から追放されるとともに、当面の活動を禁じられる事になった。1961年の世界選手権の優勝者をヘーシンクと予測し当時の全日本柔道連盟の強化委員長を激怒させたほか、1972年のミュンヘンオリンピックでも優勝者をルスカと予測しまたも的中させるなど、指導者としての目も確かだったようである。なお、1964年の東京オリンピックでは柔道日本代表の監督も務め、コーチの曽根康治と共に、日本選手団を4階級のうち無差別を除く3階級で金メダルに導いている[注釈 3]。

天理大学では二宮和弘や野村豊和、藤猪省太ら後の世界チャンピオンを輩出し、その後国際武道大学や東海大学、福岡工業大学でも柔道部師範として後進の指導に当たった。

現在、福岡県宗像市の複合スポーツ施設グローバルアリーナには、松本の功績を記念した柔道場「松本安市記念道場」が設けられ、道場脇にある展示スペースでは松本の年譜や功績等を紹介している。

現役当時の身長184~185cm、体重97~100kg強[注釈 4]。

得意技は大外刈で、相手の体重や状況等に使い分けられるよう、5種類の大外刈を持っていたという 。試合結果を見ても、勝利の90%が大外刈によるものである。

試合となると常に激しい気迫を露(あらわ)にするスタイルで、特に1歳年長の木村政彦との試合は異常なまでに闘志を燃やした。当時の木村は、試合場に上がった途端に会場が静まり返る程の強さで、相手選手の間では「木村相手に何分もつか」が己の力量を測る1つの手段であった時代であり、そのような中で臆する事なく木村に挑み続けた唯一の柔道家が松本であった。この事は木村自身も、木村の師である牛島辰熊も認めている。1948年3月15日に行われた全関西と全九州との対抗戦(新生柔道大会)個人戦・決勝にて、50分以上の激闘の末に木村の飛び関節の腕挫で右腕を折られ、唇が避けて流血しながら、それでも木村に決戦を挑み終に審判により痛み分け(引き分け)を宣せられた試合が有名である[注釈 5]。

福岡市の警察署に勤務していた頃は、ヤクザの取締担当だった。剽悍な連中が多い事で知られる福岡のヤクザも、松本の名が出ると羊のように大人しくなったそうである。

1969年の世界選手権の直前に渡米した日本代表選手が何も知らずに密輸の片棒を担がされている事を、選手団に同行していた松本の知る所となった。メキシコの空港で密輸物(腕時計)を受け取りに来たヤクザ連中に対し松本は「貴様らはそれでも日本人か! 恥を知れ!」と閻魔の如き形相で説教し、ヤクザは這う這う(ほうほう)の体で逃げ去ったという逸話が残っている。

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