東海林太郎の出身高校
東海林太郎 ミュージシャン
- 東海林太郎卒業高校
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- ミュージシャンランキング
- 149位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1898年(明治31年)12月11日生まれ
東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 - 1972年(昭和47年)10月4日)は、日本の歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。
秋田県秋田市台所町二番地に生まれた。
1908年、父大象が秋田県庁を辞職。南満州鉄道株式会社に入社。両親は満州へ。東海林は祖母カツの下で生活する。秋田中学時代にヴァイオリンに魅せられ、満州にいる父に懇願するが逆鱗にふれ断念[要検証 – ノート]。秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業。東京に上京し国民英学校に学び、早稲田大学商学部予科に入学する。卒業間際に庄司久子と結婚した。佐野学に研究科でマルクス経済学を学ぶ。
研究科修了後、1923年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、あまりにも左翼的ということにより、1927年鉄嶺の図書館に左遷される。音楽の夢が捨てきれず、満鉄には7年間勤務したが、その後、退社して帰国。弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。
声楽を下八川圭祐に師事し、音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。
流行歌のレコードは、ニットーレコードでの「宇治茶摘唄」の吹込みが最初。大日本雄辯會講談社レコード部(現:キングレコード)専属になり1933年プロ歌手となった。「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹込む。放送オペラにも出演。「椿姫」では医師の役を演じた。
日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ユニバーサルミュージック (日本))で吹込んだ「赤城の子守歌」が、1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、歌手としての地位を確立した。その後ポリドール専属となり、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。大戦中はテイチクへ移籍し、「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。
戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとして国粋的なヤクザものが禁止され、また進駐軍からも監視され、不遇の時代が続いた。
1946年、ポリドール復帰第一作が「さらば赤城よ」。1949年、キングレコードへ復帰。1953年、日本マーキュリーレコードへ移籍。その後、次第に地方公演で人気を回復し1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。
1972年9月26日午後2時30分頃、立川市内の知人宅で、調子の悪そうな歩き方を心配したマネージャーに「大丈夫ですか」と問われ、「眠いだけだよ」と横になり、そのまま意識不明となり、翌日午前には立川中央病院へ入院。次男、妹の手を握り、数人のファンに見守られ、10月4日午前8時50分に脳内出血のため死去した。享年73。葬儀は史上初めての「音楽葬」だった。
NHK紅白歌合戦に計4回出場している(詳細は下記参照)。
直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させるものであり、また「一唱民楽」の言葉のごとく、「歌は民のため」という信念を持ち、あの常に真剣勝負の姿の歌唱魂は、激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。
東海林は生前「マイク一本四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと変わりありません。」と述べていた。また、東海林の人生は病との闘いの日々でもあった。1948年に直腸癌の診断を受け最初の手術。以後、1955年、1964年と計4回に及ぶ手術で直腸を全摘。オストメイトとなり、その都度「再起不能」と言われながらも、衣装を身につける際は晒できつく腹を巻きつけながら、また、薬の副作用で顔色が変わってしまうような時は、化粧を施してステージにあがった。病魔を克服しての音楽人生だった。
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