朝倉健太の出身高校
朝倉健太 プロ野球選手
- 朝倉健太卒業高校
- 東邦高校 偏差値 愛知県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 1123位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1981年6月11日生まれ
朝倉 健太(あさくら けんた、1981年6月11日 - )は、元プロ野球選手(投手)。
1999年、東邦高校(同級生に杉田真教)、3年生時春夏の甲子園に投手兼一塁手として連続出場。共に初戦敗退だったが、夏の大会では後にチームメイトとなる福沢卓宏と投げ合い、大会最速の149km/hの速球を記録し、ドラフト上位候補として注目を浴びる。1999年のドラフトでは河内貴哉(現・広島東洋カープ)の外れ1位として、地元の中日ドラゴンズに1位指名されて入団した。
プロ入り当初はコントロールに難があった。ルーキーイヤーの2000年は、9試合に登板するも防御率14.02と不振だった。
翌2001年は1勝も挙げられることが出来ず5敗を喫した。
2002年、フォームを改造、踏み込む足(左足)をすり足ぎみに出すことにより制球が安定。そのまま先発ローテーションに定着し、プロ初勝利を含めて11勝11敗の成績を残す。
2003年は、更なる飛躍が期待され、打撃でも初本塁打を記録するが、右肘剥離骨折によりシーズン序盤に戦線離脱(開幕前から既に投げられるような状態ではなかったが、二軍落ちが嫌だったため言い出さなかったとのこと)。
2004年、背番号を41から18に変更し復活を期して臨む。開幕直前に右肩痛を起こしたが、5月26日のヤクルトスワローズ戦で復活勝利を果たす。しかし、先発ローテーションに食い込むには至らなかった。日本シリーズのメンバーには入り、先発ではなかったが登板も果たしている。
2005年は、主に先発を任され、一軍と二軍を往復する不安定さは相変わらずであったものの、中盤から後半にかけては好投を見せた。個人批判を滅多にしない落合博満監督も、この頃の朝倉に対しては厳しく言及することが多かった。
2006年、2月に行われたWBC壮行試合では12球団選抜に選ばれ、WBC出場組のイチローを内野ゴロに打ち取った。開幕時は石井裕也(現・北海道日本ハムファイターズ)と共にロングリリーフでの起用となったものの、5月に先発で起用されてから好投し、勝利を重ねる。ピンチを招いても新球シュートを駆使し内野ゴロ併殺で切り抜ける場面がよく見られ、同時に制球面も改善された。7月4日の読売ジャイアンツ戦では2002年以来4年ぶりの完封勝利を記録、監督推薦でオールスターゲームにも出場した。8月16日には2002年以来4年ぶり、自身2度目となる2桁勝利を達成。その後も勝利数を伸ばし、10月8日の対横浜ベイスターズ戦において自己新記録となる12勝目、14日には得意のヤクルト戦で13勝目を挙げる。落合も「朝倉は去年までとは全然違う」と語るなど、ようやく首脳陣の信頼を得て、ローテーション投手として飛躍を遂げた1年となった。日本シリーズでは第3戦に先発し、初回の立ち上がりに失点したものの2回以降立ち直り、終盤まで追加点を許さない好投を見せるが打線の援護なく敗戦投手となった。
2007年は、開幕から先発として起用される。前半は制球難で低迷したが、夏場に入って調子を上げ、7月と8月は7勝1敗の好成績。特に8月は4勝0敗、防御率1.10で自身初の月間MVPに輝いた。しかし、9月に入っての優勝争いの中で再び調子を落とし、12勝目以降は防御率8.38と打ち込まれる。特に9月27日の巨人との直接対決では、4点のリードを守れず脇谷亮太に逆転本塁打を浴びて敗戦投手となり、チームのセ・リーグ連覇を遠ざけてしまった。12勝目の時点で防御率2.55と最優秀防御率が狙える位置にいたが、最終的には3.36まで数字を落としてしまった。それでも自身初となる2年連続2桁勝利を挙げた。なお、被本塁打9は規定投球回数以上を投げたセ・リーグ投手の中では最も少ない(セ・パ両リーグでも2位タイ)。 また、ナゴヤドームでは防御率2.11、6勝1敗と大活躍した一方、地方球場を除いたビジターでは2勝6敗、防御率5.12と内弁慶ぶりを発揮している。クライマックスシリーズ第2ステージ第1戦に先発が予定されていたが10月9日、練習後車で帰宅中に交差点でバイクとの人身事故を起こしてしまう。この結果先発回避、山井大介の肩痛などもあり、第1戦には第1ステージにリリーフ登板していた小笠原孝が急遽先発。チームは3連勝、日本シリーズ進出を決めたものの朝倉自身は厳重注意処分を受けた。10月30日の日本シリーズ第3戦では、先発投手として被安打9ながら7回1失点と日本ハム打線を抑えて見事日本シリーズ初勝利を挙げ、中日ドラゴンズ53年ぶりの日本一に大きく貢献。アジアシリーズでは第2戦に登板し、6回2失点の好投で中日の初勝利を飾り、チームもアジア一に輝いた。
2008年、開幕から先発として起用されるが、5月30日、不調により登録抹消。6月22日に1軍復帰し、7月3日の阪神戦で5回1失点と好投するが、7月6日に再び戦線離脱。右腕の血行障害であることが判明した。その後リハビリを経てフェニックスリーグで実戦に復帰、好投によりクライマックスシリーズ第2ステージ第2戦の先発に抜擢されるが、小笠原道大の2打席連続本塁打などで2回6失点とKOされ、チームも敗れた。第3戦では12回裏に登板し1回無失点でシーズンを終えている。
2009年、開幕から先発として主に小山桂司とのコンビで戦列に復帰する。後半で調子を落としたため9月18日に登録抹消されるが、再登録後となる9月29日の巨人戦でシーズン10勝目を挙げる。防御率は4.04とやや高めで完投も0だったが、選手生命を危ぶまれた血行障害を克服し、2年ぶりとなる規定投球回数到達と二桁勝利を達成した。
2010年、開幕は出遅れるも、得意とするヤクルト戦を中心に3勝を挙げるが、負け数は倍の6敗に終わり、8月以降は出番が無かった。オフには優勝旅行への同行を許可されるも成績不振から自ら辞退する。
2011年、開幕一軍入りし、ナゴヤドームの開幕戦である4月15日の阪神戦で先発するも、KO降板して即登録抹消。8月6日の横浜戦で復帰するが、ここでもKOされてしまい、7イニング7失点2本塁打という成績となり、2001年以来となる無勝利に終わった。後に怪我が判明し8月に右肘を手術、リハビリに専念した。
2012年、開幕は二軍スタート。5月末に一軍昇格し、主に敗戦処理要員としてリリーフを務めていたが、最終的には16試合の登板で防御率7.59と結果を残すことが出来なかった。6月11日に国内FA権を取得した。
2013年、昨年に続き開幕は二軍スタート。5月6日に一軍登録され、5月12日広島東洋カープ戦にて2年ぶりの先発を果たすも、4回5失点(自責点4)とノックアウトされる。その後、先発1試合、救援1試合に登板するも結果を残せず、5月21日に2軍落ちし、そのままシーズン終了となる。シーズンオフの契約更改では、野球協約の減額制限を超える60%減となる2700万円ダウンの1800万円でサインした。
2014年、4月28日に行われたヤクルト戦で1403日振りに勝利投手となり、ヒーローインタビューで目を潤ませていた。同年は4勝6敗の成績を残したことが評価されて契約更改では年俸を700万円上積みした。
2015年、開幕を一軍で迎えたが、救援で3試合に登板した後に、この年限りで現役を退くことを表明した。9月16日には、ナゴヤ球場内の施設で引退記者会見を開催。引退を決断した理由として、数年前から自分の思うようなボールを投げられなくなったことを挙げた。また、「相手の打者に打たれても、今までと違って、悔しさを感じられなくなった。『こんな気持ちで野球をやったらダメ』だと思った」「自分だけで決められる話ではないが、『今後も野球に関わっていきたい』という願望は強い」という心情を吐露した。9月20日に再び1軍登録され、ナゴヤドームでの対巨人24回戦の8回表、先発した若松駿太からバトンを受け、2番手投手として1アウト1塁で前年までの同僚でもあった代打・堂上剛裕の場面で登板。堂上を初球で138km/h直球で捕手ファウルフライに打ち取り降板、プロ生活を締め括る形となった。11月30日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。
2016年、中日の球団職員になる予定。
かつては、最速152km/hのストレートやスライダー・フォークで三振を奪っていくタイプであった。シュート習得後は球速も平均140km/h台中盤と抑え気味だが、高速シュート・やや落ちるツーシーム気味のシュート・スライダー・フォークなどの持ち球をバランス良く効果的に使い、内野ゴロの多さによる球数の少なさや併殺の多さが持ち味である。
地方球場に強く、2009年までの58勝のうち11勝を地方球場で挙げている。また、出身地の岐阜の長良川球場、父方の祖父母が住む福井の福井県営球場でも勝利を挙げている。その代わりにナゴヤドームが苦手と話している(暑い、風が吹かない、マウンドが固いなど)。
広島戦に強い。川上憲伸が広島市民球場での登板を回避した際に先発ローテーションを入れ替えて先発することもあった(詳細は川上の項を参照)。
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