有馬頼義の出身高校
有馬頼義 作家
- 有馬頼義卒業高校
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- 130位 / 702人中 作家別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1918年(大正7年)2月14日生まれ
有馬 頼義(ありま よりちか、1918年(大正7年)2月14日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は日本の小説家で、大衆小説、社会派推理小説で活躍した。旧筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。
伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山に生まれる。母貞子は北白川宮能久親王の第二女王女子。
頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹・澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。
兄2人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。
複雑な家庭環境とは以下の通り。父・頼寧の実母・寛子は岩倉具視の娘であったが、頼寧出産後、有馬家によって一方的に理由不詳のまま岩倉家に返され、離婚に追い込まれた(後に森有礼と再婚)。
また、母・貞子は側室の岩浪稲子出生であったが、北白川宮家での貞子母子の立場の悪化を懸念した有馬韶子(有栖川宮韶仁親王女・曽祖父頼咸の正妻)によって有馬家に迎えられた。
この時に貞子の母も有馬家に同行したが、あくまで「女中」という扱いをされたため、実娘の貞子からですら呼び捨てにされるという奇妙な状態であった。
学習院初等科卒業。野球に熱中し、成蹊高等学校 (旧制)を中退。早稲田第一高等学院に入って小説を書き始め、片岡鉄兵の知遇を得る。在学中の1937年に短篇集『崩壊』を上梓。その原稿料を受け取ったことが問題とされて放校処分を受ける。徴兵延期の特権を失い、1940年に兵役に就いて満洲に渡る。
3年間の軍隊生活を経て帰国後、同盟通信社社会部記者となり、周囲の反対を押し切って芸者だった千代子と結婚。
1944年、『晴雪賦』によって第4回国民演劇脚本情報局賞受賞。
敗戦後、農相だった父が戦犯容疑者として拘禁され、財産差押えを受ける。家は貧窮生活に転落し、古道具屋、ビルのガラス拭きやアコーディオン弾き、友人が編集していたカストリ雑誌『アベック』の常連執筆者、『日刊スポーツ』の記者などで生計を支えた。
雑誌への投稿により、1950年に『河の唄』で『改造』第1回懸賞選外佳作入選。1951年、『皇女と乳牛』で『文藝春秋』懸賞入選。
1952年に田辺茂一と知り合い、同人誌「文学生活」に参加。1954年、これに発表した作品を集めた『終身未決囚』が認められ、表題作により第31回直木賞受賞。この後『別冊文芸春秋』『オール読物』『面白倶楽部』などに旺盛に作品を発表。
1956年「三十六人の乗客」以来推理小説も書き、『四万人の目撃者』『リスと日本人』『殺すな』は、同じ高山検事の登場する三部作となっている。
『貴三郎一代』は型破りな初年兵を主役にした悪漢小説的な作品で、のちに『兵隊やくざ』の題で大映で映画化されて大ヒットし、シリーズ化もされた。
1959年、『四万人の目撃者』で日本探偵作家クラブ賞受賞。賞に推された際は、野球小説のつもりで書いたとして辞退していたが、江戸川乱歩の強い薦めにより賞を受けた。
1960年代から、自宅に若手作家たちを集めて「石の会」を主宰。高井有一、高橋正男、色川武大、佃実夫、萩原葉子、室生朝子、後藤明生、森内俊雄、渡辺淳一、梅谷馨一、早乙女貢らが参加していた。
1963年の『小説現代』創刊以来の新人賞選考委員を務め、受賞者の五木寛之、中山あい子、北原亞以子らもこの中におり、落選した立松和平も有馬家で作家修行をした。
1970年には、『早稲田文学』編集長に就任。
1972年5月、川端康成の死に誘発されてガス自殺未遂を起こし、一命は取り留めたものの、以後はいくつかの随筆を書いた程度で執筆活動から遠ざかった。
遺族の証言では、以前から極度の薬物依存症であったのが原因とも言われる。
また1971年の『小説現代』8月号に発表した『カストリ雑誌前期』において、そこで引用した匿名の小説について「作者の創作でなく盗作である。盗作の事実を認めず慰謝料を払わなければ新聞沙汰にする」との脅しを受け、内密に約100万円の慰謝料を支払わされたことがあり、これを取り次いだ編集者の大村彦次郎は自殺未遂にこの事件が尾を引いていないかとしている
「東京空襲を記録する会」で「東京大空襲・戦災誌」の編纂代表を務め、1974年に菊池寛賞を受賞。
晩年は家族・知己・文学関係者との繋がりもほとんど絶って隠棲していた。1980年、脳溢血で死去。
短編「ガラスの中の少女」は、吉永小百合と後藤久美子の主演で2度映画化されている。
前任の『早稲田文学』編集長であった立原正秋には、一方的に嫌われていたという。
作家の渡辺淳一は数少ない親交のあった文壇関係者で、頼義の自殺未遂時に応急手当をした。
野球好きは有名で東急フライヤーズのテストを受けたこともあり、1947年から十数年間、地元のチームでマネージャー兼投手をしていた。また、一時期、成蹊大学野球部監督を務めた。『黒いペナント』などの野球を題材とした小説を『週刊ベースボール』に複数発表するなどもしている。
嗣子の有馬頼央(よりなか、第17代当主)は東京日本橋の水天宮の宮司を務めている。
中山あい子の小説「春の岬」は、有馬夫妻を題材に書き上げられたものであるとされる。
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