星野一義の出身高校

星野一義 スポーツ選手

星野一義卒業高校
東海大学付属翔洋高校 偏差値 静岡県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
1050位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1947年7月1日生まれ
血液型
A型

星野 一義(ほしの かずよし、1947年7月1日 - )は、元レーシングドライバーで、現在は株式会社ホシノインパル代表取締役社長。静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身。血液型:A型。現役時代は「日本一速い男」と呼ばれた。

レーシングドライバーの星野一樹は長男。

星野の生家は生菓子の製造・販売業を営んでいて、比較的裕福だったという。父・又平が道楽で何台も自動車を所有していたこともあり、子供の頃から乗り物好きだった。中学生の時には無免許にも関わらず父親からオートバイを買ってもらい、それを乗り回したり改造したりしていたらしい[注釈 1]。

東海大学附属第一高等学校(現・東海大学付属翔洋高等学校)を1年生の1学期が終わったところで中退するとしばらくは静岡市内のオートバイ販売店で働くが、程なく当時東海大学に通っていた兄・幸雄を頼って神奈川に移り、モトクロスのトップライダーだった安良岡健が率いるモトクロスチーム「カワサキ・コンバット」に入る。この頃、後に一緒にホシノインパルを立ち上げることになる金子豊と出会っている。1967年に由起子夫人と結婚。1968年にはカワサキのワークス・チーム「神戸木の実クラブ」(片山義美が主宰)に移籍して全日本モトクロス選手権の90 cc・125 cc両クラスでチャンピオンを獲得。タイトル獲得のご褒美としてヨーロッパ視察旅行に出かけた。

しかしモトクロスの危険度の高さに見合った年収が得られないことに不満を感じ[注釈 2]、一度はオートレースへの転向を考えた[注釈 3]。だが翌1969年にモトクロス仲間の歳森康師の推薦で日産自動車のワークスドライバーのテストを受け合格したのを機に二輪の世界から引退。東京・大森にあった日産の宣伝部の契約ドライバー(俗に「大森ワークス」と呼ばれる)となり、主に当時「マイナーツーリング」と呼ばれた富士スピードウェイでのツーリングカーレースなどで活躍することになる。

1974年には大森ワークスの先輩・鈴木誠一が設立した東名自動車(現・東名パワード)の契約ドライバーとしてFJ1300に参戦しデビュー戦で優勝。

1975年には全日本F2000選手権に参戦し、チャンピオンを獲得する。

1976年に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズレーシングからスポット参戦。旧型のマシン(ティレル・007)を駆り大雨の中一時3位を走行する健闘を見せるが、スペアタイヤが底をつきリタイヤした(正確にはタイヤ自体は残っていたが、それを装着するホイールの予備がなかった)。以後、全日本F2選手権や富士GCシリーズ、全日本ツーリングカー選手権(JTCおよびJTCC)においてチャンピオンの常連となり、レースファンから「日本一速い男」と呼ばれるようになる。

1977年、F1日本GPにコジマエンジニアリングKE009にて参戦 11位完走

1978年、海外初遠征となるルーアンとドニントン・パークで行われたヨーロッパF2選手権にスポット参戦するが(マシンはノバ532P・BMW)、2戦ともリタイヤに終わる。

1980年には自らのレース参戦資金を稼ぎ出す目的で、金子豊と共にホシノインパルを設立。1983年には自らのレーシングチームとして「ホシノ・レーシング」を設立している。

1983年ドニントンで行われたヨーロッパF2選手権シリーズ 第8戦にスポット参戦(マシンはマーチ832・BMW)、ブリヂストン勢最上位となる4位入賞。

1985年に富士スピードウェイで行なわれたWEC-JAPANでは、悪天候によりライバルたちがためらう中を果敢にアタックし優勝。日本人として初の世界選手権レース制覇となった。

星野は海外でも活躍し、1990年のル・マン24時間レースに日産・R90CPで出場し5位入賞、1998年のル・マン24時間レースには日産・R390で出場し、日本人ドライバートリオによる初の3位表彰台に輝いた。他にも1992年には林義正・水野和敏の指揮でデイトナ24時間レースに日産・R91CPで出場し、2位を9周引き離して完全優勝するなどの実績を挙げている。このレースでは他にもファステストラップ1分38秒495や、24時間の平均速度181.923km/hなど、数多くの記録を塗り替えた。1987年にはホンダF1のテストドライバーになった他、スポンサー持込などの条件付きでF1のシートに誘われることも多かったというが、「プロのドライバーはお金を貰って走るもの。だからこちらからたとえ1円でも払ってまで乗りたくはなかった。」という考えで、F1のレギュラーシートを得ることはなかった。

1990年代に入ると全日本ツーリングカー選手権や全日本GT選手権にカルソニックカラーのスカイラインGT-Rで参戦し数多くのチャンピオンを獲得、「カルソニックの星野」のイメージが強くなる。1997年シーズン開幕直前に持病の腰痛の悪化の為、国内トップフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)からの引退を発表。以後も全日本GT選手権に参戦を続けるが、2002年8月に現役ドライバー引退を発表した。

引退後は全日本GT(現・SUPER GT)とフォーミュラ・ニッポンに参戦する自身のチーム「チームインパル」の監督を務める。また、ニスモフェスティバルなどの自動車のイベントでのデモラン走行や日産の新型車(主にフェアレディZやスカイライン、GT-Rなど)のテストドライブなどで雑誌やメディアに姿を見せることも少なくない。

星野一義の関連人物

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