新井良太の出身高校

新井良太 プロ野球選手

新井良太卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1983年8月16日生まれ

新井 良太(あらい りょうた、1983年8月16日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。

広島東洋カープに所属する新井貴浩は実兄。

小学5年時からソフトボールを始め、五月が丘中学2年時には軟式野球で中国大会3位に入った。

広陵高校では主に一塁手を務め、3年時に4番・主将で春の選抜大会に出場。当時2年の吉村裕基が4番を打っていた東福岡高校と初戦で当たり、自ら投手として3イニングを無失点に抑えたものの、試合は4-8で敗れた。広陵の2年後輩に西村健太朗・白濱裕太がいる。

卒業後は、当初は早稲田大学の進学を考えていたが、兄・貴浩の「(自身の恩師である)太田誠監督(当時)の下で野球をやってほしい」という希望で東都大学野球連盟所属の駒澤大学へ進学した。入学してまもなく4番に座った。東都大学1部リーグ通算79試合出場、273打数65安打、打率.238, 14本塁打(歴代7位タイ)、49打点。ベストナイン2度受賞。このほか1シーズンのみ2部リーグでプレーし3本塁打している。駒大の1年後輩に野本圭がおり、大学時代は野本が3番、新井が4番とクリーンナップを担っていた。

2005年のドラフトで中日ドラゴンズから4位指名を受け入団。背番号は「25」が与えられた。

プロ初年度の2006年は新人ながら二軍のウエスタン・リーグでほぼ毎試合4番で出場した。しかし、打率.254・3本塁打と、パワーはあるものの粗い打撃と拙守のためシーズン前半は二軍生活を送った。7月17日にプロ初の一軍昇格。同日の対横浜ベイスターズ戦で代打として待機していたものの、降雨コールドとなり初打席はお預けとなってしまった。しかしその後一軍再昇格し、9月10日の対広島戦7回表、二度目の代打機会でプロ初安打を記録。この試合には兄の貴浩も広島の三塁手として出場しており、1998年7月16日の山田勉(広島)・山田洋(中日)以来8年ぶりに、別球団同士の兄弟選手が同時に顔を合わせたケースとなった。この時、敵地である広島市民球場のスコアボードには「中日ドラゴンズ25新井良太選手 広島市民球場 初登場!」と表示する演出が行なわれた。その後4度の代打機会にて全てヒットを放ち、右の代打として存在をアピール。10月12日の対阪神戦では6番・一塁手でプロ初スタメン出場を果たした。10月16日の対広島最終戦(広島市民球場)ではヒットを打って一塁に出塁した兄・貴浩と一塁守備に就く弟・良太が初めて並んだ。それまでは良太は代打ばかりで守備に就くことがあまりなく、レギュラーのタイロン・ウッズが足を痛めていたこともあっての出場であった。逆に三塁・貴浩と三塁走者・良太の並びは2006年中には実現しなかった。

同年の秋季キャンプでは強化選手に選ばれ、連日ハードな練習メニューをこなした。初日は通常の2倍のテンポで投げ出され、しかも見逃せば罰金を取られるマシン打撃を行った。両足がつり、グロッキー状態になりながらも1時間のメニューをこなした。しかし強化選手に選ばれているため、更に1時間このメニューを続け、スイング数は1,500回にもなった。終わった後は立つこともできず、バットから指も離せなくなった。練習後、記者の質問に対して「ヘタクソは練習あるのみです!」と語っている。2日目は落合博満監督から直々にノックを受けた。ただのノックではなく、同僚の森野将彦と共に50球連続で捕球できたら終了という内容で、エラーをするとファンから野次られたり、励まされたりされていた。意識が朦朧としてくるとバケツに入った水を頭から被った。結局、終わったのは1時間40分後であった。練習後に新井自身は「強化選手に選ばれるのは光栄なこと。人より多く練習できるので、その期待に応えたい」と語った。

2007年は二軍で打率.286, チームトップの6本塁打と打撃が向上し、一軍でも打率.280を記録、プロ初打点も挙げた。7月31日の対広島戦(広島市民球場)では延長10回表に初の決勝打を放った。一方、本職の内野守備(一塁手・三塁手)になかなか向上が見られないことに加え、地肩の強さ、大学時代の4年春に7盗塁を決めた脚力などを考えた首脳陣から外野手へのコンバートを打診された。本人も「試合に出られるなら」とこのシーズンの終盤より積極的に外野守備練習に励み、シーズン終盤からは試合前のノックでも、内野守備練習に加え左翼など外野でも練習する姿が多く見られた。10月7日の対横浜戦では3番・左翼手でスタメン出場したが、死球を受けて打席で悶絶、途中交代となった。これに関しては立浪和義から、せっかく与えてもらったチャンスをふいにしてしまったことへの戒めとして「痛がるなら一塁へ行ってからじゃないのか」と叱咤された。この言葉に新井は「今度は顔に当たっても塁へ出ます」と教訓を得て、スタメン出場したアジアシリーズ第1戦では試合中の一塁守備時に手の指を負傷したものの、それを痛がるそぶりもなく引き続きプレーした。後に骨折と判明し、第2戦以降は欠場している。このシーズンから中日の私設応援団による選手別応援歌が作られたが、新井のみ1番・2番の構成になっている。

2008年、春季キャンプは一軍スタートだったものの、中盤に二軍に降格。そのまま二軍で開幕を迎えたが、そこで好成績を収め、5月14日に一軍に合流。負傷した森野に代わって翌15日に一軍に昇格した。その後わずか3日で再び二軍に降格したが、二軍で打率3割の活躍をみせて、6月7日に二度目の一軍昇格となった。また、この年はウエスタン・リーグで規定打席に4打席達しないながらも、認定ルールにより、打率.332でチームとしては1970年の坪井新三郎以来となる例外規定での2人目の首位打者、出塁率.418で最高出塁率のタイトルを獲得した。

オフにはドミニカ・ウィンターリーグに派遣され、レオネス・デル・エスコヒード (Leones del Escogido) に所属した。結局、選手登録はされず、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのアカデミーでの練習試合に出場して通算8打数3安打4四死球と、選手登録されて出場した藤井淳志や前田章宏に比べて低いものであった。しかし、派遣されている間にタイロン・ウッズが退団、さらに、翌年の一塁手最有力候補であった中村紀洋もフリーエージェントで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍し、定位置である一塁が空いたため、開幕スタメンのチャンスができた。

2009年の春季キャンプは一軍スタートでそのまま完走。3月1日の対北海道日本ハムファイターズのオープン戦で6回表無死、日本ハムの3番手江尻慎太郎から中越えに本塁打を放った。その後は不調となり二軍に降格したが、開幕は初めて一軍で迎えた。しかし代打で結果が出せず、4月20日に降格した。ウエスタン・リーグでは4番・一塁のレギュラーとして打率.299, 9本塁打、リーグ3位の55打点。出塁率.426, 最多四死球(60個)で2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得した。4月の練習で一軍控え組で測定された10メートル走でトップになり、宮前岳巳トレーニングコーチに「今年からすごく速くなった。チームの5本の指に入るかもしれない」と言われた。

2010年、6月9日の対楽天戦で一軍での初本塁打を記録した。この年は自己最多の45試合に出場したが、打率1割台と不振に陥り一軍に定着することはできなかった。オフに背番号を「32」に変更することになったが、その直後の12月24日、水田圭介との交換トレードで阪神に移籍。兄・貴浩、慕っている金本知憲と同じチームでプレイすることになった。

12月27日に阪神入団発表記者会見を行い、背番号は「32」、登録名・スコアボード表記名はフルネームの「新井良太」と発表された。ただし、甲子園などの球場ではスペースの都合上「新井良」と表示、兄・貴浩は「新井」のままである。水田が着けていた背番号をそのまま引き継ぐ形になったが、これは中日で翌年に着けるはずだった番号とも同じであった。

移籍初年度の2011年、開幕一軍に帯同し、4月19日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦で、移籍後初安打をプロ入り初のサヨナラ安打で決めた。4月22日の対横浜戦に兄・貴浩もサヨナラ安打を放ち、史上初の同年に同一チーム所属の実兄弟揃ってのサヨナラ安打が実現した。その後は調子を落とし、8月5日に一軍登録を抹消。8月は二軍でも32打数4安打、打率.125と不振を極めた。9月になり復調し、俊介と交代で9月15日に再昇格したが、昇格後は再び不振に陥り結果を残せなかった。最終的に打率は2割に満たず、結局前年よりも少ない43試合の出場でシーズンを終えた。

2012年は一軍の試合で一塁手・三塁手・左翼手・右翼手の4ポジションを経験しながら、徐々に長打力を発揮するようになり、兄・貴浩の出場いかんにかかわらず、スタメンで試合に出場する機会が増えていった。7月17日の対巨人戦で、阪神球団として7,000本目の本塁打を放った。貴浩とともにスタメンで出場した7月29日の対横浜戦(阪神甲子園球場)では、貴浩とともに本塁打を放ち、1981年のロッテオリオンズのレロン・リーとレオン・リー以来31年振り3組目の兄弟アベック本塁打を記録した。8月の長期ロードからは、和田豊監督の方針で「4番・三塁手」としてスタメンに定着。同月12日の対広島戦(京セラドーム大阪)では、3回裏に4番打者としての初本塁打を放つと、6回裏に貴浩の本塁打によってシーズン2度目となる兄弟アベック本塁打を達成した。また、9月2日の対広島戦(甲子園)では、延長11回裏にライトスタンドへ「野球人生初」というサヨナラ本塁打(2ラン)を放っている。この年の出場試合数は110試合と自己最多だった。

2013年、シーズン開幕戦の対東京ヤクルトスワローズ戦(3月29日・明治神宮野球場)で、4番打者としてプロ入り後初の開幕スタメンに抜擢。第1打席の二塁ゴロ失策で、チームのシーズン初打点を挙げた。その後の試合でも4番打者に起用され続けたが、4月5日の対広島戦(マツダスタジアム)延長11回表の打席で、遊撃へゴロを放って一塁ベースを駆け抜けた際に左太もも裏を痛めて交代(記録は併殺打)。その後の検査で「軽度の肉離れ」と診断されたため、翌4月6日に出場登録を抹消された。同月16日に一軍復帰を果たすと、「6番・三塁手」として出場した5月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦(甲子園)の第1打席で、プロ入り後初の満塁本塁打を放った。その後は、前述の戦線離脱を機にマット・マートンが4番打者へ定着していたことに加えて、自身の打撃不振から7番や8番に降格。三塁の守備でも精彩を欠いたため、セ・パ交流戦終盤の6月10日から同月20日までは、二軍での調整を余儀なくされたが、一軍復帰後の7月14日の対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)ではシーズン2本目となる満塁本塁打を放った。さらに、7月24日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)ではシーズン3本目となる満塁本塁打を放った。シーズン3度の満塁本塁打を記録したのは阪神ではハル・ブリーデン、田淵幸一、今岡誠に次いで4人目。この年は前年を上回る119試合に出場し、いずれも自己最高の14本塁打、51打点を記録したが打率は.238と安定感を欠いた。

2014年は4月までに打率.338, 6本塁打を放つなど好調なスタートを切ったが、5月以降は不振に陥り6月25日に登録抹消。一軍復帰後は代打要員または7番・右翼手として出場していたが、8月28日に腰痛を発症して翌日に再び登録抹消され、そのままレギュラーシーズンを終えた。オフには背番号を、この年限りで阪神を退団して広島に復帰した兄・貴浩がつけていた「25」への変更を打診されたが、「誰かにつけられるくらいなら僕がというも思いもあったけど。いろいろな人に相談した。32に愛着もあるし、25は兄のイメージもあるので」と語り、辞退した。 なお、背番号「25」は駒大の後輩で、大学時代には新井兄弟同様「25」を背負っていた同年のドラフト3位の江越大賀がつけることになった。

在日韓国人であったが、2004年6月頃に兄の貴浩と同様に日本に帰化している。体格やプレー中のしぐさなどが兄の貴浩とそっくりと言われている。2006年7月25日の対阪神戦にて代打として初登場し、空振り三振に倒れた際、左翼手を務めていた金本知憲は兄・貴浩に対し「似すぎやろ」と言った(『中日スポーツ」の「ドラ番記者」に掲載)。良太もまた兄の貴浩と同様に金本を慕っている。ちなみに金本は2012年に現役を引退したが、2016年からは監督として再び同じユニフォームを着ることになった。

特技の一つは書道。

2006年オフに広島の実家に帰った際、兄・貴浩がかつて本塁打王獲得時に乗っており、後に父の会社に預けていた自家用車に兄に無断で名古屋まで乗って帰ってきた。実際は自分で車を買おうとしたところ父親に「二軍選手が車を買うなんて100万年早い。これ乗っとけ」と言われたのが真相であると語っている。

2007年の日本シリーズ祝勝会ではお笑いコンビ・藤崎マーケットが着用する白いタンクトップを身につけてビールかけに参加した。

『月刊ドラゴンズ』2月号のインタビューで清水昭信、高橋聡文、佐藤亮太、前田章宏、2007年まで中日に育成選手として所属した竹下哲史の6人で集まる「昭和58年会」を行っていると語っている。

2013年の秋季キャンプから阪神のGM付育成&打撃コーディネーター(当時。現在は二軍監督)に就任した掛布雅之からは、「ミスタータイガースと呼ばれた現役時代の自分に続いて欲しい」という期待を込めて、「小ミスター」と呼ばれている。

中学三年生から、金本や兄・貴浩が通っているスポーツジム「トレーニングクラブアスリート」に通っていて、高校三年生の時点で既にセーフティスクワット(160kg)を10回こなしていた。「アスリート」の代表である平岡洋二氏は良太が駒沢大学の練習参加のために上京する際に「お前はもし野球が駄目でも他の競技で生きて行ける」と激励した。

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