広池浩司の出身高校
広池浩司 プロ野球選手
- 広池浩司卒業高校
- 立教新座高校 偏差値 埼玉県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 72位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1973年8月29日生まれ
広池 浩司(ひろいけ こうじ、1973年8月29日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)。
埼玉県越谷市出身。越谷リトルリーグで硬式野球を始める。リトルリーグ時代はピッチャーであったが、中学校の野球部(軟式野球)とシニアリーグ(硬式野球)を掛け持ちしていたため、肩・肘を痛めてしまった。これが原因で、以降は投手として活躍する事は無かった。その後立教高校(現・立教新座高校)から立教大学に進学。立教高校、立教大学ともに最高学年次には野球部主将を務めた。東京六大学リーグ通算88試合出場、309打数80安打、打率.259、4本塁打、35打点。
大学4年の秋、プロ入りを熱望しこの年のドラフトで指名を待っていたが、指名は無かった。卒業後は野球から離れ、就職の内定していた全日空に入社した。
入社後は羽田空港でカウンター業務を担当していたが、立教大学の4番だった広池に、同じ東京六大学野球出身の野村克則や高木大成などかつてのライバル達が遠征の際に声をかけた事もあり、「俺でもやれたんじゃないか」とプロ入りへの夢が再燃。入社2年目の1997年、スポーツ新聞で広島東洋カープ入団テスト実施の記事を目にし、自身の合格の可能性を考え投手として受験。一次試験(1日間)、二次試験(2日間)をパスした。最終試験は秋季キャンプに参加する事が条件であったため、選手契約の保証が無いまま、全日空を決意の退社。秋季キャンプで左腕投手としての実力を認められ、入団テストには合格したが、編成の都合上同年のドラフト指名は見送られた。翌1998年は自費で練習生としてドミニカ共和国のカープアカデミーに参加。8か月余りに及ぶ野球留学を経験したのち、同年のドラフト8位で広島東洋カープに入団した。
プロ入り後は主に左の中継ぎ投手として活躍。高校・大学では外野手であった事もあり、使い減りしていない肩も魅力だった。入団一年目の1999年には、対阪神タイガース戦で部坂俊之からプロ入り初打席初本塁打を記録している。足も速く、2000年オフに行なわれた球団対抗リレーでは1走で出走し、各チームの俊足野手を抑え2着で次走に渡し、広島の優勝に貢献した。
2004年は19試合の登板ながら初の防御率2点台を記録。
2005年4月7日の対阪神タイガース戦では、内野安打を放って出塁すると、ヘッドスライディングで二塁への盗塁に成功。4月29日の対読売ジャイアンツ戦では清原和博に通算500号となる本塁打を被弾したが、ヒーローインタビューで清原は「広池投手は先日もヘッドスライディングをしたり、闘志のある投手だと思っていたので最後絶対にツーナッシングから速い球で勝負してくると思った。広池投手から打てて本当にうれしい」とコメントした。同年は41試合に登板したが、防御率8.06と極度の不振だった。
2006年には谷間の先発からセットアッパー、敗戦処理まであらゆる場面で登板し、一年を通して一軍に帯同した。投手コーチの清川栄治からは「困ったら広池」と言われるほど信頼が大きかった。しかし不安定な投球も多く、中継ぎとしては被安打が多いことも課題であった。
2009年は開幕前に肘の手術をし、そのリハビリのためプロ入り後初めて一軍での登板がなかった。
2010年は2年ぶりに一軍登板を果たした。一軍復帰3度目の登板となった7月6日の対読売ジャイアンツ戦に3番手で登板するものの小笠原道大に適時打、アレックス・ラミレスに2点本塁打を浴び敗戦投手となりこれが現役最後の一軍登板となった。10月3日に戦力外通告を受け、球団からはフロント入りの要請もあったが、11月2日に自身のブログにて現役を引退し退団することを表明した。11月5日には埼玉西武ライオンズの打撃投手に就任した事を発表し、秋季キャンプからチームに合流した。
2012年11月1日から、育成担当兼副寮長に就任。
2014年からは、ファームディレクター補佐兼ファーム編集室長。
広池浩司の関連人物
プロ野球選手偏差値ランキング
職業から有名人の出身卒業高校を探す
プロ野球選手偏差値ランキング