平山菊二の出身高校

平山菊二 プロ野球選手

平山菊二卒業高校
下関市立下関商業高校 偏差値 山口県高校偏差値ランキング
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性別
男性
生年月日
1918年9月23日生まれ

ホームラン性の打球を、外野フェンスによじ登ってキャッチするのを得意としていたことから「塀際の魔術師」と呼ばれた。

下関商業学校(現在の下関市立下関商業高等学校)時代は遊撃手だった。1学年下に後にチームメイトとなる矢野純一、2学年下に藤本英雄(のち巨人)がいた。広島鉄道局で当時の監督から「内野ではその強肩を生かせない」との理由で外野手へコンバートされた。

1937年、東京巨人軍に入団。3年目に左翼のレギュラーポジションを獲得すると川上哲治、千葉茂らとともに巨人軍第一期黄金時代を作り上げた。1942年に応召し、ビルマ戦線に出兵。終戦後、巨人に復帰。戦後も巨人の中心選手として活躍し、前述の「塀際の魔術師」の異名もちょうどこの頃命名された。

しかし、巨人軍の内紛ともいえる「幻の連判状事件」に巻き込まれ、1949年オフに退団。翌1950年、郷里・下関を本拠地とする新規参入球団・大洋ホエールズに移籍。初代キャプテンに任命され中心選手として活躍し、チームが松竹ロビンスと合併し「大洋松竹ロビンス」となった1953年をもって引退。

引退後は大洋球団でスカウト部長、球団常務を歴任。大洋の後身・横浜ベイスターズが38年ぶりに優勝した1998年に亡くなったが、優勝の瞬間を見届けることはできなかった。

1948年11月26日の東西対抗戦第4試合(後楽園球場)、7回二死後、投手・川崎徳次、打者・飯田徳治の場面で、飯田が左翼ポールぎりぎりに入る本塁打性の当たりを打ち上げたところ、左翼を守っていた平山が、右手を外野フェンスに掛け反動を利用してジャンプし、左手のグラブを観客席の方に大きく突き出して捕球し、アウトにした。このプレーを球場で見ていた大和球士によって「塀際の魔術師」と命名された。平山にとっては偶然生まれたプレーだったが、このキャッチフレーズによって平山の外野守備が大きくクローズアップされたことで、平山はこの言葉に名前負けしないように、いつでも同じプレーができるように猛練習を繰り返した。

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