平井三郎の出身高校
平井三郎 プロ野球選手
- 平井三郎卒業高校
- 徳島商業高校 偏差値 徳島県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 3428位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
平井 三郎(ひらい さぶろう、旧姓:生田、1923年9月4日 - 1969年7月23日)は、徳島県出身のプロ野球選手(内野手)。
徳島商業学校では1939年から1940年にかけて、甲子園に春夏通じて3度出場。同級生に蔦文也がいる。
明治大学からノンプロ全徳島を経て、1948年に阪急ブレーブスへ入団。阪急ではすぐに遊撃手のレギュラーとなり、打率.279(打撃成績14位)はチームトップであった。1950年にセ・パ両リーグが分立すると、宇高勲の引き抜きにより宮崎剛・日比野武・永利勇吉とともに新設球団の西日本パイレーツへ移籍する。西日本でも1番打者・遊撃手として打率.309(リーグ11位)を挙げる。
しかし、同年オフに西日本は西鉄クリッパーズと合併することとなったが、西日本の主力選手であった日比野武・南村不可止とともに西鉄と読売ジャイアンツとの選手争奪戦に巻き込まれる。2リーグ分裂時に戦前からの正遊撃手であった白石敏男を広島カープに譲渡し、後釜として三塁手の山川喜作をコンバートしたものの穴は埋められず、遊撃手が弱点となっていた巨人はどうしても平井の獲得が必要な状況であった。西鉄の西亦次郎は宇高勲とともに3選手を東京の宿泊施設に缶詰にしたのち、一緒に福岡へ連れ戻そうとするが、混雑する東京駅で平井は一行とはぐれ巨人側に連れ去られてしまったという。結局、平井・南村は巨人へ、日比野は西鉄へ移籍することになった。
1951年から1953年まで正遊撃手を務めて、千葉茂との二遊間コンビを結成し守備の要となり、巨人の3年連続日本一に大きく貢献した。平井自身も3年連続でベストナインのタイトルを獲得するとともに、オールスターゲームにも出場した。また、平井正明から平井三郎に改名した1953年には、1番打者を務めて打率.291で打撃成績10位に入り、リーグトップの97得点を記録している。なお、1953年3月にアメリカのサンタマリアで行った、サンフランシスコ・ジャイアンツとのオープン戦ではサヨナラ本塁打を打ち、日本プロ野球の単独チームによるメジャーリーグに対する初白星をもたらせている。1954年に広岡達朗が入団すると出場機会が減り、1956年以降は遊撃手のポジションを広岡に譲って二塁手に回るが、1957年に心臓弁膜症を患って引退した。
1959年に近鉄バファローの監督に就任した千葉茂に誘われ内野コーチに就任。1961年限りで千葉茂とともに近鉄を退団。1962年は阪神タイガースのスカウトとして辻恭彦などを入団させる。翌1963年から2年間阪神のコーチを務め、1965年には再びスカウトに戻る。阪神退団後は名古屋市で現役時代の背番号に因んで喫茶店「エイト」を経営。1969年死去。満45歳没。
1976年当時、水原茂は巨人軍の歴代ベストナインの遊撃手に平井を推している。
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