山田潔の出身高校

山田潔 プロ野球選手

山田潔卒業高校
松山商業高校 偏差値 愛媛県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
2239位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1921年1月16日生まれ

山田 潔(やまだ きよし、1921年1月16日 - 1984年6月15日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(遊撃手)。

松山商業に在学中の頃、チームは春、夏を通じて4度甲子園に出場し、1935年(昭和10年)の夏に全国制覇を果たしている。この時、同期で中山正嘉、筒井修、筒井良武、菅利雄、千葉茂、伊賀上潤伍といった、後にプロ野球で大いに活躍する選手達がいた。1938年(昭和13年)、イーグルスに入団し、1942年(昭和17年)まで在籍、戦後は1946年(昭和21年)、巨人に在籍してプロ野球に復帰したが、翌1947年(昭和22年)に国民リーグ・大塚アスレチックスに籍を置いて再び日本野球連盟から一旦離れる。しかし1947年秋季の国民リーグ最優秀選手に選ばれた山田は、1948年(昭和23年)には金星に入団して再度プロ野球界に復帰し、大映と名前が変わってもそのままチームに残り、1956年(昭和31年)まで在籍した。

打撃では打率に鑑みると然程ではなく、1938年春のシーズンの打率.107は、規定打席に到達した打者の打率としては歴代最低記録として残っている。その一方で選球眼は優れていたそうで、1942年(昭和17年)に記録した95四球はシーズン最多四球を記録しており、通算でも四球は三振の倍を記録している。ちなみに通算のIsoD(出塁率-打率)は.128であり、4000打席以上の打者では王貞治(元巨人)に次ぐ2位の記録である。シーズンのIsoDでも1942年に記録した.197は、規定打席に達した歴代の全選手の中で王の1974年に記録した.199に次ぐ2位の記録だった。また守備が優れていたため、引退まで遊撃手のレギュラーとして活躍した。1940年8月8日の金鯱戦では、1試合16守備機会(刺殺9個、補殺7個) の記録を作った。現役引退後は大毎、大洋、広島と、方々で内野守備走塁コーチ・二軍監督(大洋、1970-71)を歴任し、選手達からは「お父さん」と呼ばれるほど愛され、名コーチとして手腕を振るった。

1984年(昭和59年)6月15日逝去。享年63。

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