山内壮馬の出身高校

山内壮馬 プロ野球選手

山内壮馬卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1985年7月1日生まれ

山内 壮馬(やまうち そうま、1985年7月1日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する愛知県豊田市出身のプロ野球選手(投手)。手すき和紙作家で重要無形文化財保持者(人間国宝)の山内一生は、祖父の義弟に当たる。

一家を挙げての中日ドラゴンズファンで、「中日のエースになりたい」という理由から、小学生時代に野球を始めた。豊田市立梅坪台中学校への在学中までは、投手兼捕手としてプレー。杜若高等学校への進学後は、硬式野球部で投手に専念するとともに、同級生で左腕投手の長谷部康平とエースの座を争っていた。3年生時には甲子園愛知県予選でベスト4まで駒を進めたものの、豊川高校の2年生エース森福允彦の前に完封負けを喫し、甲子園出場はならなかった。

名城大学法学部への進学後は、1年先輩の清水昭信らとともに同大野球部を支え、3年時の全日本大学野球選手権大会ではベスト8進出に貢献した。愛知大学1部リーグで通算6勝8敗、2部リーグで9勝3敗。4年生秋に2部リーグで最優秀選手、最優秀防御率を受賞した。

2007年の大学・社会人ドラフト会議で、中日から1位指名を受けて入団。名城大学からのドラフト1位指名選手は1979年の藤原保行(近鉄バファローズ)以来2人目で、中日には前年6位指名の清水に次ぐ2年連続の入団になった。担当スカウトは中原勇一で、入団当初の背番号は26。この番号は、中日の前身・名古屋軍で第二次世界大戦前最後のノーヒットノーランを達成した石丸進一の背番号でもあった。

2008年には、7月21日にプロ入り後初の出場選手登録を果たすと、2日後の23日に地元・ナゴヤドームでの対広島東洋カープ戦で救援投手として一軍公式戦初登板。8月3日の登録抹消を経て、9月14日に再び登録されると、同日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で一軍での先発デビューを果たした。しかし、横浜打線に3本の本塁打を許すなど、4回裏までに4点を失って降板。降板の直後には、試合が続いていたにもかかわらず、一軍監督の落合博満から名古屋への帰還を命じられた。結局、わずか1日で再び登録を抹消されると、そのまま二軍でシーズンを終えた。

2009年には、春季キャンプのスタートを一軍で迎えながら、途中で二軍に降格。一軍公式戦にはわずか1試合の登板で、2年連続の未勝利に終わった。シーズン終盤の9月25日から年末までは、チームメイトの長峰昌司・谷哲也と共に、ドミニカ共和国のウィンターリーグへ派遣されている。

2010年には、4月25日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)に先発すると、6回を2失点という内容で一軍初勝利を挙げた。また、シーズン終了後の12月24日には入籍している。

2011年には、プロ入り後初めて、開幕を一軍で迎えた。4月27日の対横浜戦(豊橋市民球場に先発すると、6回雨天コールドゲームながら、一軍初完封勝利を達成。シーズン全体では、この試合を含めて、対横浜戦での先発で同球団のエース・三浦大輔と互角の投げ合いを演じることが多かった。結局、一軍公式戦では自己最多の3勝を記録。先発ローテーションの谷間の試合を任されながら、防御率1点台という投球内容で存在感を示した。

2012年には、開幕から一軍の先発ローテーションに定着。4月5日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)に7回無失点でシーズン初勝利を挙げたことを皮切りに、シーズンを通じてローテーションを守った結果、チームの投手では唯一一軍の規定投球回数に達した。さらに、9月16日の対広島戦で、自身初のシーズン10勝を記録。シーズン通算では、一軍公式戦24試合の登板(すべて先発)で、10勝7敗、防御率2.43という好成績を残した。なお、4月9日には、第1子の誕生を公表している。

2013年も開幕ローテーション入りを果たすと、先発で登板した4月21日の対DeNA戦(横浜)の打席で、三浦から一軍初本塁打を放った。しかし、初回からの大量失点や不用意な四球による自滅が相次いだことに加えて、左背筋を痛めたことで5月13日に登録を抹消。その後にいったん一軍へ復帰したが、6月9日に再び登録を抹消されると、8月28日に右肘遊離軟骨の除去手術と右肘関節内のクリーニング手術を受けた。復帰までに2~3ヶ月を要する手術だったため、そのままシーズンを終了。一軍公式戦には9試合に先発したものの、2勝4敗、防御率5.54という成績に終わった。

2014年には、オープン戦からの不振で開幕一軍入りを逃した。4月3日には、シーズン初の出場選手登録を経て、京セラドーム大阪での対阪神戦に先発で登板。しかし、4回を投げて8被安打5四球7失点という内容だったため、谷繁元信選手兼任一軍監督から「相手と勝負する前に、勝負になってなかった」という苦言を呈された。翌4日に登録を抹消されると、一軍復帰を果たせないまま、シーズン終了後に背番号を59へ変更している。

2015年には、プロ入り後初めて一軍公式戦への登板機会がなく、10月4日に球団から戦力外通告を受けた。しかし、右肘の手術を受けてから一軍で結果を出せていないことへの心残りは強く、通告後の11月10日にはシートバッティング形式の12球団合同トライアウト(草薙球場)に参加。1四球を与えながらも、打者3人を無安打に抑えた。

前述の合同トライアウト直後の2015年11月12日から、栗原健太・金無英・川本良平と共に、入団テストを兼ねて東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季キャンプに参加。捕手出身の梨田昌孝一軍監督から、「動くボールが持ち味で、コントロールもいい」という評価を受けた。同月15日の紅白戦終了後には、梨田が約4200人の観衆の前で、山内含む全員の合格を発表している。

平均球速約136km/hの速球は打者の手元で沈むクセ球であり、変化球はスライダー・カーブ・フォーク・シュート・カットボールを投げる。ドミニカウインターリーグの派遣をきっかけに、打者の目線をそらすことの大切さを知り、カーブを習得。

杜若高校の同級生だった長谷部とは、プロ入り後も仲が良いという。奇しくも、中日は2007年の大学・社会人ドラフト会議で、長谷部を最初に1位で指名。東北楽天ゴールデンイーグルスなど4球団と指名が重複した末に、楽天が抽選で長谷部の入団交渉権を確定させたため、山内の指名に切り替えた。

山内自身は、長谷部と一緒に中日へ入団することを望んでいた。自身の指名の直後には、中日でチームメイトになれなかったことに複雑な思いを抱えながらも、「(パシフィック・リーグに加盟する楽天に長谷部が入団した場合には、セントラル・リーグの代表チームの一員として)日本プロ野球の頂点である日本シリーズで長谷部と投げ合いたい」とコメント。自身の中日入団が決まった際には、長谷部より先に一軍の先発で勝利することを目標に挙げていた。ただし実際には、長谷部が山内より1年早く、2009年4月30日の北海道日本ハムファイターズ戦(クリネックススタジアム宮城)で先発投手としての一軍初勝利を記録。また、長谷部が2013年の日本シリーズで1試合登板しているのに対して、山内は2015年までの時点で同シリーズでの登板を経験していない。なお、山内が前述の経緯で楽天へ入団したことによって、2016年シーズンからは再び長谷部のチームメイトになる。

中日入団の時点では、名城大学で取得した単位の数が、卒業認定の要件を満たしていなかった。しかし、「せっかく大学に入って、いろんな方にお世話になったので、どうしても卒業したかった」との思いから、残した単位を入団後少しずつ取得。休学と復学を繰り返しながら、入団6年目の2014年2月初旬に最後の2単位を取得できたため、同大学から正式に卒業を認められた。山内によれば、プロ入り後の6年間は野球最優先の生活を送る一方で、単位の取得に必要なレポートを空き時間に作成していたことがあったという。

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