山中正竹の出身高校
山中正竹 プロ野球選手
- 山中正竹卒業高校
- 佐伯鶴城高校 偏差値 大分県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 2098位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1947年4月24日生まれ
山中 正竹(やまなか まさたけ、1947年4月24日 - )は、元社会人野球の選手(投手)・監督。
大分県生まれ。大分県立佐伯鶴城高等学校を卒業後、法政大学に進学。1年次よりエースピッチャーとして活躍し、一年先輩の田淵幸一捕手、山本浩司外野手、富田勝三塁手ら「法政三羽ガラス」と共に、東京六大学リーグにおける法大の黄金時代を形成する大きな原動力となった。在学4年間で残した通算48勝は、東京六大学リーグの最多勝記録である。東京六大学リーグでは在学中3度優勝。1968年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で駒大を降し優勝。リーグ通算80試合登板、48勝13敗、防御率1.86、230奪三振、ベストナイン2回。大学同期に江本孟紀投手、黒田正宏捕手、山田克己遊撃手(大昭和製紙)、堀井和人左翼手らがいた。
大学卒業後は住友金属工業に入社し、野球部の中心選手として活躍。1970年から1976年まで7年連続で都市対抗野球大会に出場する。1970年の大会ではルーキーながら4試合に登板、チームも準決勝に進むが大昭和製紙に大敗。1971年の大会には新日鐵広畑の補強選手として出場。全試合に先発して4勝をあげ決勝に進出、丸善石油を降しチームの優勝に貢献した。この時のチームメートに佐々木恭介一塁手、三沢淳投手がいる。1972年の大会でも住友金属のエースとして準決勝に進出、その後も社会人野球を代表する選手として活躍し、その名を轟かせた。
1976年に現役を引退し、1981年から住友金属の監督に就任。1982年には第53回都市対抗野球大会に優勝し、1983年、1984年と2年連続で社会人野球日本選手権大会優勝を飾った。1984年、住友金属監督を退任。
ソウルオリンピック野球日本代表(1988年)コーチとして、バルセロナオリンピック野球日本代表(1992年)では監督として、二度のメダル獲得に大きく貢献している。
また、1977年より1993年まで、NHKで高校野球・大学野球、五輪野球競技の解説者を務めた後、1994年に母校・法政大学の監督に就任。退任する2002年までの間に、工学部教授を務めながら、六大学リーグに7度、全日本大学野球選手権大会に1度優勝(1995年)するなど、指導者としても法政黄金時代を築き上げた。山中が法大監督を務めた最終年2002年の最上級生は松坂世代の後藤武敏・土居龍太郎・河野友軌、矢野英司、その4人を含む第1回世界大学野球選手権日本代表でも監督を務め3位入賞。
2003年、前出の龍太郎や河野や日大野球部の主砲村田修一やエース堤内健が22歳の即戦力新人として加入した横浜ベイスターズの専務取締役に就任。2006年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)アジア代表の技術委員を務めた。その傍らで、ドラフト制度検討委員会の委員長、セントラル野球連盟理事長などを歴任し、2010年3月末に退任した。2010年4月より法政大学特任教授に就任。第5回世界野球選手権大会、第16回広州アジア大会における野球競技の技術委員を務めた。
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