小林伸二の出身高校

小林伸二 サッカー選手

小林伸二卒業高校
島原商業高校 偏差値 長崎県高校偏差値ランキング
サッカー選手ランキング
1451位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1960年8月24日生まれ

小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現Jリーグ・清水エスパルス監督。

現役時代はFW(ウイング)として活躍。

長崎県立島原商業高等学校時代には小嶺忠敏の教えを受けている。島原商のエースとして、1977年インターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。その後、大阪商業大学に入学し、上田亮三郎から指導を受けた。

1983年にマツダSC東洋工業サッカー部(サンフレッチェ広島の前身)に入団。1987年にはハンス・オフト監督のもと高橋真一郎、松田浩、猿沢茂ら日本人と、ディド・ハーフナーら外国人と共に、天皇杯決勝進出に貢献した。

1990年に現役を引退し、マツダSC/広島のトップチームコーチ、また広島ユースの創設で初代監督を務め、1995年にJユースカップ優勝、広島ユースに初の栄冠をもたらした。2000年にアビスパ福岡、2001年にJ2大分トリニータのサテライト監督に就任する。6月、トップチームの石崎信弘監督が成績不振で解任された後を受けて大分トリニータの監督に就任。

この年は石崎監督時代の出遅れを取り戻せず6位に終わるが、2002年は28勝10分6敗と圧倒的な強さでJ2優勝を果たしJ1に昇格する。J1・1年目の2003年は、守備は通用したが深刻な得点力不足に陥り、結局通算14位でかろうじて残留を決めた。シーズン終了後に監督を退任。

2004年7月、この年のJ1・1stステージで最下位だったセレッソ大阪の監督に就任する。2ndステージも苦戦したが、最後の2試合で連勝して年間成績で15位に滑り込み、J1残留を果たす。

2005年は開幕3連敗で早々と最下位に沈んだが、ここから粘りを見せて第19節から最終節まではJ1最多記録となる16試合連続負け無し(10勝6分)の快進撃。第33節で首位に立ち、続く第34節(最終節)、ホームでのFC東京戦で勝利すればJ1優勝決定という所までこぎつけた。優勝は逃した(最終順位は5位)が、前年にJ2降格の危機に瀕していたチームを優勝目前まで引き上げた。この経緯を経て迎えた2006年は周囲より優勝を期待されたが、開幕から不振が続き4月18日付で監督を解任された。

同年10月9日付で九州サッカーリーグ(Kyuリーグ)に所属するV・ファーレン長崎の強化部長兼アシスタントコーチに就任。レンタル移籍選手を入団させてJFLへの昇格を目指すも、地域リーグ決勝大会の決勝ラウンドで敗退した。

その後12月12日、アビスパ福岡チーム統括グループ長に複数年契約で就任。2007年シーズンはJ1再昇格に向けチーム再建に取り組んでいたが、自身の就任後に都筑興社長の肝煎りで就任したピエール・リトバルスキー監督と強化方針をめぐり対立、チームはJ2第13節で一度は首位に立ったが、上位チームとの対戦成績の悪さが影響しその後1度も首位に立つことなく終盤は中位に低迷、4戦を残し昇格の可能性が消えたこともあり11月13日に来期もリトバルスキー監督の続投を考える社長から詰め腹を切らされる形で更迭された。

2008年、モンテディオ山形の監督に就任し現場復帰。最終的にJ1昇格のための足がかりである「5位以内」というシーズン前の目標を飛び越え、J2リーグ2位の成績でシーズンを終え、就任初年度にチーム悲願となる初のJ1昇格を達成。

2009年、山形のJ1初年度となるシーズン前の補強はセレッソ時代に小林の下でプレーをした古橋達弥を獲得したが、その他の補強は日本人選手2名と実力が未知数な外国人選手の獲得に留まり、昇格に貢献した豊田陽平が京都サンガF.C.へ移籍するなど、昨年の戦力すら維持できない可能性があった。一時は降格圏にまで順位を下げたが、小林はシーズン後半戦の残留を賭けた下位チームとの連戦を前に相手チームを徹底的に分析し、相手の弱点を突く練習を行った。その結果、山形は下位相手の連戦に勝ち越し、最終的に15位で終了。山形をJ1に残留させる事に成功した。

2010年も引き続き山形を指揮。前年同様、J2降格候補の最有力と呼ばれたが、鹿島から田代有三、増田誓志をレンタルで獲得し、シーズン途中にはC大阪時代の教え子である前田和哉を獲得。既存戦力と巧く順応させ、チーム一丸となってリーグ戦に臨んだ結果、前年を上回る13位でシーズンを終了。山形を再びJ1残留に導いた。

2010年12月10日、山形と契約を更新し、4年目の指揮を執ることが決定した。Jリーグ参入後、山形で4年目の指揮を執るのは小林が初めてあったが、2011年は開幕から成績不振の末最下位に終わり、J2降格が決定。契約満了に伴い、来季の契約を更新しないことが発表され退任となった。

2012年は当初、現場を離れ休養する意思を示していたが、徳島ヴォルティスからの熱烈なオファーを受け、それに応える形で監督に就任。1年目は15位に終わったものの、2年目となる2013年、リーグ戦4位でJ1昇格プレーオフに進出。これを勝ち抜き、チームとして初の、監督としては3度目となるJ1昇格を果たした。2013年12月日、徳島ヴォルティスとの契約が更新され、2014年も指揮をとることが決まった。3年目の2014年は成績不振が続き最下位で1年で降格した。4年目の2015年ではシーズン前半戦は下位に沈んだが、シーズン後半戦は持ち直し順位を順調に上げた。しかし前半の不振が仇となり、第40節で札幌戦に敗北してしまった事でJ1昇格プレーオフ進出を逃がし、その後天皇杯に敗北した時点で退任が決まった。第95回天皇杯では3回戦でアルビレックス新潟を2-1で破った。また、4回戦でサンフレッチェ広島に1-2と敗れはしたものの健闘した。

2016年より、この年にJ2へ降格した清水エスパルスの監督に就任。

大分在籍時から守備力のあるチームを作ることが多い。特に2003年2ndステージは失点がリーグ最少の16だった(ただし15試合で得点はわずか7。もちろんリーグ最少で、このステージは最下位であった)。これまで「攻めダルマのザル守備」と揶揄されたC大阪でも、初めてシーズン当初から指揮を執った2005年になって本領を発揮し、森島寛晃と西澤明訓を中心にもともとある攻撃力とうまくかみ合って、特に後半戦での快進撃を生んだ。山形でもまずは守備の再生に着手し、コーチの長島裕明と二人三脚でチームをJ1昇格・J1残留という結果に導いている(後に徳島でも長島と共闘している。)。いくつものチームをJ2からJ1に昇格させたことから、昇格請負人と呼ばれることがある。

表中の数字は小林が在籍中のもの。

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