小林亜星の出身高校
小林亜星 ミュージシャン
- 小林亜星卒業高校
- 慶應義塾高校 偏差値 神奈川県高校偏差値ランキング
- ミュージシャンランキング
- 11位 / 829人中 ミュージシャン別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1932年8月11日生まれ
小林 亜星(こばやし あせい、1932年8月11日 - )は、日本の作曲家。そのほかに作詞家、俳優、タレント、幾つかのCMソングや楽曲では歌手として歌うという幾つもの顔を持つ、多彩な才能の持ち主でもある。アストロミュージック所属。日本作詞作曲家協会(J-scat)理事。大日本肥満者連盟(大ピ連)初代会長を務めた。CMソングやテレビ主題歌にヒット曲、ロングランの曲が非常に多い。
東京都杉並区出身・在住。母の尊敬する演出家の息子の名前をとって「亜星」と付けられた(NHK『わたしが子どもだったころ』より)。
旧制慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校(同じクラスに音楽家冨田勲がいた)を経て、慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。作曲を服部正に師事した。
妹はイラストレーターの川村みづえ、次男は『太陽戦隊サンバルカン』のバルパンサー/豹朝夫役で知られる元俳優の小林朝夫。
九条の会賛同者である。
祖父は医者、父は役人、母は劇団員。子供時代に戦争のため長野県小諸市に疎開した経験を持つ。後に疎開の子供たちの悲惨さをテレビ番組で語ったこともある。
医学部に入学したものの医者になりたくはなく、音楽サークル活動に熱中した事で親に断りなく転部した。卒業時には親の知るところとなり勘当された。
その後会社に就職したが二週間で辞め、服部正の門を叩いた。当初は服部に「音楽大学出身者以外の弟子は取らない」と断られたが連絡先を書いたメモを郵便受けに置いて帰った所、数日後に電話で入門を認められた。当時は痩せていたという。
出世作のレナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(歌:弘田三枝子)は、当時レナウンの宣伝部に在籍していた実妹の紹介で実現したという。これ以後、CMソングの作曲数では先輩の三木鶏郎に及ばないものの、CMソングを中心とした作曲活動を展開するようになった。
1969年、「イエイエ」、「エメロンシャンプー」他のCM音楽作曲に対して、第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞。
向田邦子の代表作であるテレビドラマ『寺内貫太郎一家』が俳優デビューとなり、「すぐ、ちゃぶ台をひっくりかえすような」頑固な親父「寺内貫太郎」役で、大きな印象を残している。起用前の風貌は長髪でサングラスをかけており、原作者の向田は自身の父親をモデルにした寺内貫太郎像とはほど遠く、起用に難色を示したという。しかしプロデューサーの久世光彦の発案で髪を坊主頭にし、黒い丸縁めがね、印半纏等を身に着けた小林を向田にひき会わせた所、納得して起用が決まった経緯がある。また本人の話では、当時太っている俳優は少なく、高木ブー・フランキー堺は多忙で断られ、その中で小林に白羽の矢が立った。
1980年(昭和57年)1月から1984年(昭和59年)10月までテレビのクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)に。男性軍キャプテンとしてレギュラー出演。同番組のメインである「16分割クイズ」においては、わずか1枚開いただけで正解に導く事が多々あり、「16分割の鬼」と言われた。
日本音楽著作権協会の一部理事たちによる公金不正流用事件を機に、有志会員が小林亜星、永六輔、野坂昭如を中心に結束し、協会を監視是正するオンブズマン的団体J-scat(日本作詞作曲家協会)を組織した。この団体の活動資金を捻出するために、1996年の暮れから3人で世直しトリオとして「歌入りトークショー」を開始した。
服部克久作曲の「記念樹」が小林の作曲した「どこまでも行こう」を剽窃(盗用)しているとして小林が訴えて服部と法廷で争う形で裁判になった(記念樹事件)。司法では最終的に小林の主張が認められた。
2009年5月には懇意のヴァイオリニスト、天満敦子とのコラボレーションを集大成したアルバム『ロマンティックをもう一度』が発売された。
2015年、第57回日本レコード大賞・功労賞を受賞。
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