小川浩一の出身高校
小川浩一 プロ野球選手
- 小川浩一卒業高校
- 佐賀学園高校 偏差値 佐賀県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 4412位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1965年5月10日生まれ
小川 浩一(おがわ こういち、1965年5月10日 - )は、佐賀県佐賀市東与賀町出身の元プロ野球選手(内野手)。
1995年から1999年までの登録名は小川 皓市(読みは同じ)。
佐賀学園時代は1981年に1年生ながら6番打者として夏の甲子園に出場。その後、日本鋼管福山を経て、1987年のドラフト2位で日本ハムファイターズに入団。広角打法のシュアなバッティングで、主に右投手先発の時に二塁手や三塁手としてスタメン出場し、左の代打の切り札としても活躍した。内野全ポジションおよび外野を経験したユーティリティープレイヤーではあったが守備はあまり得意ではなく、小川に代わってよく守備固めをしていたのが、後にキャプテンとなり遊撃手としてブレイクした広瀬哲朗。
打撃フォームは独特で、テニスのドライブショットのようなテイクバックをしていた。
1990年のオープン戦でルーキーの野茂英雄から本塁打を打ち、「野茂? たいしたことないね」という発言がマスコミにとりあげられたが、本人はその発言を否定している。
1990年5月9日の対西武ライオンズ戦(東京ドーム)で、西武先発の渡辺久信が9回まで日本ハム打線をノーヒットに抑えていたが、味方も点を取れず0対0のまま延長に突入。延長11回1アウトから、渡辺のノーヒットノーランの夢を打ち砕くヒットを放った。なお、村田兆治の200勝達成時の最後の打者でもある。1998年オフに戦力外通告を受け、1999年に福岡ダイエーホークスにテスト入団するが、一軍出場は無く、同年限りで現役引退。
現在は社会人野球クラブチーム「佐賀魂」のコーチを務めていたが、退団した。
小川浩一の関連人物
プロ野球選手偏差値ランキング
職業から有名人の出身卒業高校を探す
プロ野球選手偏差値ランキング