宮沢賢治の出身高校

宮沢賢治 作家

宮沢賢治卒業高校
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性別
男性

宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字:宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。

郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。

生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであったため、無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。

生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったといわれる。

しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。最初の全集は(作品全体からは一部の収録ではあるものの)早くも死去の翌年に文圃堂より刊行され、続いて文圃堂から紙型を買い取った十字屋書店がそれに増補する形で1939年から1944年にかけて出版した。戦後は筑摩書房から(文庫判も含め)数次にわたり刊行されている(主な作品は次項参照)。

広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。また幼い頃から親しんだ仏教も強い影響を与えている。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。

なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。

また、童話作品においては擬声語(オノマトペ)を多用し、作品によっては韻文にも近いリズム感を持った文体を使用したことも大きな特徴である。賢治の童話は同時代に主流とされた『赤い鳥』などの児童文学作品とはかなり異質なものであった。

賢治の作品には世界主義的な雰囲気があり、岩手県という郷土への愛着こそあれ軍国的要素や民族主義的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教的な救済信仰をも取り上げ、全人類への宗教的寛容に達していたことが垣間見られる。宗教学者からは、賢治のこうした考え方の根本は、法華経に基づくものであると指摘されている。

戦後は賢治の生き方や作品にみられる人文主義や平和主義的側面が注目され、特に近年は環境運動思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。

賢治は音楽に深い関心を持っており、自身が作詞作曲の歌がいくつか残されている(生涯で8曲の歌曲を作った)。 代表作「星めぐりの歌」は賢治ゆかりの作品等を通じて現在でも親しまれている。 この歌は知人の採譜によって譜面化されたものであり、直筆の譜面は存在しない。

賢治は自ら学んだエスペラントでも詩作を試みたが、公表されたのは1953年である。これらの作品のほとんどは自らの作品のエスペラントへの翻訳、改作である。

上記の通り賢治は生涯独身であった。しかし、性に対して無知であったわけではなく、性科学者エリスの主著を原著で揃えるなど、当時の性に関する科学的知識を持っていた。知人の結婚を助力したことも伝えられている。独身を貫いた背景として、高等農林の研究生時代に肋膜炎で医師の診断を受けたあと「自分の命もあと15年ほどしかない」と友人に語ったこともあり、賢治自身が長生できないと認識していた可能性も指摘されている(実際の没年も15年後であった)。

盛岡中学校卒業後に岩手病院で看護婦に恋心を抱いた。農学校退職後の「羅須地人協会」時代に賢治に敬意を抱いた高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になった。1928年6月に伊豆大島で農業指導をした伊藤七雄の妹である伊藤チヱは、密かに見合いの相手と目されていたともいわれている(同年春に兄妹で花巻を訪れて賢治とは面識があった)。ところが、いずれのケースも「男女交際」には至らずに終わっている。

盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面はときにあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内をあらわしていると考える研究者もいる。

2000年代以降、農学校勤務時代やその後の闘病生活において、関心を寄せていた可能性のある女性の存在が、複数研究者よりあげられている。

法華経信仰に入った後、1918年(大正7年)5月19日付で友人の保阪嘉内に宛てた手紙で「私は春から生物のからだを食うのをやめました」と書き、その考え方は童話「ビジテリアン大祭」に垣間見ができる。菜食主義として伝わる。研究者(堀尾青史)による年譜では1918年4月頃から菜食生活を開始し、以後5年間続けたと記されている。

上記の書簡からは、動物性食品を摂ることを避けようとする意思を確認できる。同時にあくまで肉食をネガティブにつかむ文脈の中ではあるが「けれども先日社会と連絡をとるおまじないにまぐろのさしみを数切食べました。また茶碗むしをさじでかきまわしました。」と記している。また、1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙にて「7月の初め頃から二十五日頃へかけて、一寸肉食(豚の脂、塩鱈の干物など)をしたのです。それは第一は私の感情があまり冬のやうな工合になってしまって燃えるような生理的の衝動なんか感じないように思われたので、こんな事では一人の心をも理解し兼ねると思って断然幾片かの豚の脂、塩鱈の干物などを食べた為にそれをきっかけにして脚が悪くなったのでした。然るに肉食をしたって別段感情が変るわけでもありません。今はもうすっかり逆戻りをしました」と記しており、上記の期間においても肉食の体験があったことが窺知できる。ただし、1918年暮れに妹トシの看病のため上京した際には、宿泊先の旅館で菜食主義の賢治のために精進料理を出してくれたという伝記の記述もあり、書簡における言及に鑑みても、上記の期間における肉食は例外的なものであったとみられる。

研究者の板谷栄城は、賢治が飲酒や喫煙をしていたこともあるという証言も踏まえた上で、「賢治の名高い菜食主義が生涯を通じてのものではなく、時には平気で肉食をしたことや、すすめられれば盃も手にした」と記し、「賢治を論ずるのに、『一日に玄コメ4合』だの『生涯を通じての菜食主義』だのといった話をもち出す必要はありません」と結論づけている。

ただ、農学校を退職した後の独居自炊時代は菜食主義を研究し、粗食をしていたことが複数の人物によって証言されている。賢治の伝記研究をおこなった堀尾青史は「菜食主義が体力の回復をはばんだといえるだろう」と、早世した原因の一つが食生活にあったことを指摘している。

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