宮崎学の出身高校
宮崎学 コメンテーター
- 宮崎学卒業高校
- 啓光学園高校 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
- コメンテーターランキング
- 117位 / 140人中 コメンテーター別偏差値ランキング
- 生年月日
- 1945年10月25日生まれ
宮崎 学(みやざき まなぶ、1945年10月25日 - )は、日本の評論家、ノンフィクション作家、小説家。京都府京都市伏見区深草福稲高松町生まれ。
1996年10月、南風社より、自らの経歴を記した『突破者』を発表し、小版元からの出版で、広告宣伝をしなかったが、1997年夏時点で15万部を出版する。以来「元アウトローの作家(文化人)」ではなく「作家の看板をあげたアウトロー」の「生活者」と称する。2005年には英語版『TOPPA MONO』も翻訳出版された。
京都・伏見のヤクザ寺村組の初代組長を父に、大阪・釜ヶ崎の博徒の娘を母に持った、4人きょうだいの末子である。父の宮崎清親(旧姓・寺村)は京都府の南端、木津川沿いの綴喜郡井手村(いまの井手町玉水)の貧しい農家の次男坊であり、10代の初めに京都に出てきた。戦後になってから中島源之介の中島会(のちに中島連合会)と正式に関わりをもって盃をうけ、ヤクザの世界に加わる。父は博徒であったが、その一方で鳶や土方を数十人抱える解体屋寺村組の親方でもあった。宮崎が物心ついた頃には、父は30~40人の組員を抱えていた。
母もヤクザの血を引いていた。母は元来、和歌山県の貧農の出であるが、父親が大阪の萩ノ茶屋に出てヤクザ渡世を送ったために釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った。宮崎は祖父には、一度も会ったことがない。うだつの上がらない極道だったようで、母の姉3人は身売りされたり、子供の頃から働かされたりの、お定まりの極貧ぶりだった。母も、当時のスラムの花形産業であったマッチづくりの仕事に5、6歳の頃から追われ、尋常小学校にも通えなかった。それでも親の目を盗んで時折学校に行き、窓の外から同級生の授業を聞いていたという。読み書きは独学だった。父方、母方とも、社会の底辺に蠢く家系であった。
宮崎本人は被差別部落の生まれではないが、著書『近代の奈落』(2002年、解放出版社・解放同盟の機関誌『部落解放』に当時連載された)で、父が「京都府綴喜郡井手町の被差別部落の出身で、スリの頭目だった」という父の知人の証言を紹介。以来、自らを部落民と規定している。
枚方の新設私学高校の啓光学園に入学し、卒業。早稲田を受験するも失敗、浪人。 その後、京都における共産党の中心的存在である谷口善太郎の元を訪れ、18歳で共産党に入党。宮崎は当時を振り返り「左翼はヤクザの猥雑で気ままな「侠」が純化された世界なんだと勝手に思い込んでいた。要するに、マルクス主義とヤクザをごちゃまぜにして両方もろともにやってやれと呑気に考えていた」「共産党とヤクザでは暴力も非合法もまるで質が違う。そうであっても、法に守られず暴力にさらされる状況下での行動の倫理、人間の事に処する処し方は共通しているのではないか、と思っていた。というよりも、ヤクザの侠をはたせないで何が左翼だ、それで革命ができるはずがない」「革命理論としてのマルクス主義、行動倫理としての侠、こいつを両方もっていればこわいものはない。ドンといってやろやないか!というわけである」と述べている。
1965年早稲田大学第二法学部入学。学生運動にあけくれ、授業には数回しか出ず、一単位も取得しなかったという。1966年、大規模な無期限ストライキに発展した、学費値上げ反対・学生会館の管理運営権の獲得を掲げた早大闘争に参加、また共産党系の秘密ゲバルト組織・あかつき行動隊[要検証 – ノート]の隊長に就任し、東大闘争で全共闘と対立した。
1969年早稲田大学卒業式ボイコットを企画・実行し、それがマスコミに大きく報じられ、共産党中央の逆鱗に触れ除名。もっともこのころには学生運動に乗れなくなっていて、未練や恨みめいたものはなかったという。「もう多数派形成ゲームに乗るのはよそう。生涯一少数派でいいじゃないか。もう群れるのはよそう。どこまでいけるかわからないが、とにかく一人で行こう」「抽象的な観念に寄りかかって生きるのはよそう。どろどろした具体的な人間関係の中で肉感的に生きて行こう」「市井の、まつろわぬ一無頼として『太く短く』生きたっていいじゃないか。大きなものによりかかって生きるぐらいなら、そのほうがすっきりしていい」などと漠然と考えていた」と述べている。
1970年、週刊誌『週刊現代』の株式関連を担当するフリー記者(いわゆるトップ屋)となる。1975年、京都府内の家業の解体業「寺村建産」を継承して経営したが、ゼネコンへの企業恐喝容疑により指名手配され、1980年7月25日、京都府警に出頭・逮捕される。当時宮崎の学生時代からの知人大谷昭宏の手により、読売新聞紙上で同時進行形式で『企業恐喝を追う』というルポルタージュを連載、最初出頭・逮捕にあわせて7月25日夕刊に「逃亡中の容疑者の独占インタビュー」が掲載された。同年8月9日には処分保留のまま釈放されたが、逮捕の件により金融機関の信用を失い、取引を停止されて1980年10月25日に倒産、25億円もの負債を抱えた。
1982年東京に戻り、「愚連隊の元祖・神様」と言われた万年東一の厄介になった。1984年、グリコ・森永事件が起きた際には「キツネ目の男」と酷似していたことなどから最重要参考人として事情聴取を受けたものの、キツネ目の男が目撃された1984年6月28日には都内の音楽大学の労組会議に出席していたアリバイがあったために逮捕を免れる。
1987年バブルの際には、地上げを稼ぎの種とする。多額のキャッシュを不動産屋に手渡す際の模様を、若松孝二に密かに撮影してもらったこともある。
1996年には『突破者』出版。「突破」(とっぱ)とは、関西で無茶者、突っ張り者のことである。宮崎自身は「社会的なしがらみからいかに自由であるか、ということかもしれないんだけど、結果的にはしがらみの中で生きていかざるを得ない。だとすれば、しがらみの質の問題になる」「いわゆる近代民主主義的なしがらみじゃなく、動物としての人間としてのしがらみのなかにいる、ということ」「「動物たれ」というのが、突破者のひとつの原則になる」と述べている。
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