宇野光雄の出身高校
宇野光雄 プロ野球選手
- 宇野光雄卒業高校
- 和歌山県立桐蔭高校 偏差値 和歌山県高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 325位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1917年4月10日生まれ
宇野 光雄(うの みつお、1917年4月10日 - 1994年4月17日)は、愛知県出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
旧制和歌山中学では春の選抜に4年連続出場し、1933年はベスト4、1934年はベスト8まで進出。1936年は優秀選手賞になるなど、走攻守揃った三塁手として名を馳せた。
1937年、慶應義塾大学に入学。戦前の黄金期に中心選手として活躍し、飯島滋弥・宮崎要・大館盈六とともに「100万弗の内野陣」と謳われた。東京六大学リーグでは通算90試合に出場し331打数79安打、0本塁打、打率.239。
1946年、戦後初の東京六大学リーグでは、母校の監督として5戦全勝で優勝を飾る。藤倉電線を経て、1947年に三原脩監督に熱心に勧誘されて読売ジャイアンツに入団するが、肩を故障してしまう。療養中の1948年には同じく肩を壊し調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習得のきっかけとなった。結局、宇野の肩は治らず1948年シーズン途中で巨人を退団した。巨人退団後は新東宝に入社して、山田五十鈴の付き人も務めたという。
1950年に豊富なキャリアを評価されて巨人に二軍監督として復帰。少ない選手数の中で練習の手伝いをしているうちに肩の故障が回復し、シーズン終盤の39試合に出場して打率3割を記録する。翌1951年からは手塚明治に替わってレギュラー三塁手となって青田昇・川上哲治とともにクリーンアップを打ち、打率.303を記録してセ・リーグ打撃成績10位に入る。1952年も5番南村不可止に次いで6番打者を務めて打率.290(リーグ11位)をマークする。しかし、1953年になるとハワイから来日していきなり.340の高打率を挙げた柏枝文治に押されて出場試合数が減り、同年限りで国鉄スワローズに移籍となった。移籍については、1954年春の明石キャンプで水原茂監督から通告されたが、宇野は悔しさのあまり非常に荒れたという。
国鉄では選手兼任コーチの傍ら、4番打者として打率.291(リーグ12位)を記録し、ベストナイン三塁手のタイトルを獲得する。また、宇野は対巨人戦で打率.338を記録し、チームも同年4月4日から6月20日まで巨人相手に8連勝し、宇野の闘志が国鉄に乗り移ったといわれた。1955年まで4番三塁手を務め、1956年に国鉄の監督に就任。
国鉄の監督になると、宇野は巨人に対して非常に闘志を燃やして集中攻撃し、巨人対国鉄戦は大熱戦が展開される看板カードとなった。1956年の国鉄は対巨人戦11勝13敗と健闘し、チーム設立以来初めて4位に浮上する。1950年代後半の国鉄はエース金田正一の最盛期であったが、4年連続4位と巨人・阪神・中日の三強の壁をどうしても崩せなかった。1959年の勝率.492を最高に一度もAクラス・勝率5割を達成できないまま、最下位に転落した1960年限りで国鉄の監督を退任した。
1961年からは、前年度リーグ優勝監督の西本幸雄の辞任を受けて大毎オリオンズの監督を務めたが、2年連続4位に留まり、翌1962年限りで辞任した。1969年から1970年までは、慶大・巨人の先輩である水原茂監督の下で中日ドラゴンズのヘッドコーチを務めている。
引退後は日本短波放送と千葉テレビ放送、東京12ch解説者を務めた。
1994年4月17日に多発性骨髄腫のため死去。満77歳没。
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