奈良原浩の出身高校
奈良原浩 プロ野球選手
- 奈良原浩卒業高校
- 帝京高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 1842位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1968年5月16日生まれ
奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県南埼玉郡白岡町(現・白岡市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。2012年より、埼玉西武ライオンズのコーチを務めている。
埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる。4歳頃に軟式野球のボールとグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった。篠津小ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫の優れたノックで守備を鍛えられたという。1学年上には河田雄祐と小林昭則がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。主将となった3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は1番・遊撃手として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている。
青山学院大学へ進むと、2年の秋に遊撃手として東都リーグのベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ、同年は日米大学野球の代表にも選ばれた。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。1990年のドラフト2位で西武ライオンズに指名され、契約金と年俸それぞれ6,000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ。
プロ1年目の1991年から、コーチの伊原春樹には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。同年の日本シリーズでは第1戦で代走としてシリーズ初出場を果たした。
1992年は代走や田辺徳雄の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された。同年の日本シリーズでは第3戦の8回に伊東昭光からシリーズ初安打、初打点を記録しているオフには380万円増の年俸1,700万円(推定)で契約を更改した。
1993年は遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した。1994年は5月7日の対ロッテ戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、鎖骨を骨折して全治2ヶ月のケガを負っている。
1995年は松井稼頭央と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。1996年は田辺とともに主に二塁手として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。1997年は高木浩之が二塁手として先発出場する事が多く、出場試合数は100試合を割っている。同年10月30日に西崎幸広との交換トレードで石井丈裕とともに日本ハムファイターズへ移籍。この際、日本ハム監督の上田利治はトレード要員として奈良原と投手1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の東尾修はやむを得ず承諾したという。
1998年は開幕当初は代走や二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った金子誠に代わってスタメンで起用されると3割を超える打率をマークし、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着した。その後、右肩を痛めた田中幸雄が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の規定打席に到達し、ビッグバン打線の中で貴重なつなぎ役となった。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の出塁率.388を記録し、年俸は2,600万円増の7,400万円(推定)となっている。
1999年は田中が遊撃手に戻り、自身は代走や守備固めなどでの起用が増えた。2000年は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧みな守備などで支えた。オフにはFAの権利を行使し、複数年契約で残留している。
2002年には監督の大島康徳から指名され、主将に就任した。同年は遊撃手のレギュラーとして期待され、オープン戦では打率.412の好成績を残している。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大によって待球が難しくなった事もあり、打撃不振に陥った。また、札幌市への本拠地移転計画の発表や日本ハム本社の牛肉偽装事件などがあってチームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている。オフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した。木元邦之の成長などもあって出場機会は徐々に減り、2005年オフには翌年の年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている。
2006年6月20日に、金銭トレードにより中日ドラゴンズへ移籍。9月19日の対横浜戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっているなお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対巨人戦で延長12回表に放った適時打であった。日本シリーズでは第1、2戦で代走として起用されている。同年限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した。
二軍内野守備走塁コーチを務めたのち、2011年より二軍野手コーチとなった。同年をもって落合博満が監督を辞任すると、10月6日付でヘッドの森繁和ら他の8人のコーチとともに退団が発表された。2012年より、埼玉西武ライオンズの一軍守備走塁コーチに就任した。
辻発彦と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ、 オレステス・デストラーデからは「オジー・スミスとまでは言わないが、MLBで十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や石毛宏典と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取る事など多くを学んだという。守備では特に打球へのスタートを重視しており、捕手のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた。
西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと東尾修は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている。
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