太田房江の出身高校
太田房江 議員
- 太田房江卒業高校
- 時習館高校 偏差値 愛知県高校偏差値ランキング
- 議員ランキング
- 161位 / 885人中 議員別偏差値ランキング
- 性別
- 女性
- 生年月日
- 1951年6月26日生まれ
太田 房江(おおた ふさえ、1951年6月26日 - )は、日本の政治家、実業家、タレント、元通商官僚。自由民主党所属の参議院議員(1期)。戸籍名は齊藤 房江(さいとう ふさえ)、「太田」は旧姓である。
広島県呉市出身。愛知県立時習館高等学校を経て、東京大学経済学部経済学科卒業後、1975年旧通商産業省入省。消費経済課長、近畿通産局総務企画部長を経て、1997年岡山県副知事に就任し、石井正弘の下で副知事を務めた。1999年通商産業省に復帰し、大臣官房審議官となった。
2000年、横山ノック前知事の辞任に伴う大阪府知事選挙に自民党・民主党・公明党などの推薦を受け立候補し、鰺坂真・平岡龍人らを破り日本初の女性知事となる。続く2004年の知事選挙では社民党も推薦に加わり、1970年代に南海ホークスや阪神タイガースのエースとして活躍しプロ野球解説者や参議院議員でもあった江本孟紀を破り2期目の当選を果たす。2008年、任期満了により大阪府知事を退任した。
その後、デーブ・スペクターの芸能事務所であるスペクター・コミュニケーションズに所属する。2008年6月27日付で大阪に本社を持つ総合ガス企業・エア・ウォーターの非常勤取締役・経営戦略室特命担当に就任。2010年4月には農業戦略部長とグループ会社のエア・ウォーター農園代表取締役社長に就任し、2012年に退任した。また、弁護士の住田裕子が代表理事を務めるNPO法人、長寿安心会の大阪支部長ならびに関西大学や大阪産業大学で客員教授を務めた。
2013年7月21日に執行される第23回参議院議員通常選挙に比例代表候補として自由民主党公認で出馬、同党大阪府連の重点候補として支援を受け、77,173票を獲得して党内最下位の18位で当選した。
2015年10月9日、厚生労働大臣政務官に就任した。
一般的な活動や選挙活動は通称の「太田房江」で行えるが、公文書などの署名は戸籍上の氏名で行う必要があり、本名の「齊藤房江」で行われた。大阪府知事が公務において通名と本名を使い分ける行為は前任の横山ノックからであり、2008年に後任の橋下徹が就任するまで13年にわたり続いた。
大相撲の春場所で優勝力士に贈る大阪府知事賞の贈呈を巡り、女人禁制の土俵に知事自らが上がりたいという意向を示したが、日本相撲協会に拒まれた(なお、これについては全ての女性の賛同を得られていたわけではなく、好角家でもある内館牧子は太田の意向に反対していた)。
ふるさと納税に対しては大都市の首長として、石原慎太郎東京都知事などと同様反対の意思を表明した。
2007年11月18日に投票の大阪市長選挙は、各党で対立する立候補があったため、自身が各党からの推薦を受けていた太田は中立の姿勢を示していた。しかし、民主党推薦の平松邦夫が当選すると、平松の事務所で一緒に万歳をした(バンザイ事件)。現職の關淳一大阪市長を推薦していた自民・公明両党は太田を強く批判したが、太田は「礼儀として当然」と説明したが、このバンザイ事件によって自民・公明両党との関係が最悪に陥り、知事選への3期目出馬断念・退任表明に追い込まれた。2008年2月に大阪府知事を退任。
2期8年間の主な実績として太田は、シャープ新工場(堺市堺区)などの企業誘致、関西国際空港の2期工事(第2滑走路供用開始)、治安の改善、行財政改革を挙げた。
大阪府の普通決算における実質収支は、太田が府知事に就任した2000年度には383億円もの赤字だったが、歳出削減を中心とした財政再建策により、太田が知事を退任する直前の2007年度には、赤字額は7億円にまで減少した。世間では、後任の橋下徹知事の在任中に府の財政が黒字転換したことに注目が集まりがちだが、実際には太田の在任中から赤字額は減り続けていたのである。そのため、「極端なことを言えば、橋下知事ではなく太田前知事のままでも大阪府の『赤字脱却宣言』はなし得たということです。」「ある大阪府議会の有力議員も『実質収支がプラスに転じる時期に知事に就任したことが、橋下知事に幸運をもたらした』と語っていたことなのです。」といった指摘もある。
しかしその一方で、太田が知事に在任していた時期の大阪府は、府債の返済に充てるためのお金を積み立てた減債基金の取り崩しを行っていた。府は2001年度より、毎年500~1000億円前後を取り崩し、一般会計に入れていた。このことは議会にも報告されており問題無かったが、それが2004年度以降になると、償還期限を迎えた地方債が急増し、減債基金の取り崩しに限界が訪れた。そこで、地方債の償還を一部先送りすることで減債基金の残高を維持し続け、その額は2004年度からの3年間で約2600億円に達した。この浮いたお金の一部を一般会計に組み入れ、意図的に財政赤字を隠すことになった。この手法は違法では無いが、旧自治省の指導に反しており、議会や、地方債を購入する金融機関や投資家には報告されていなかった。この赤字隠しは、太田が府知事退任を表明した後、2008年に行われた府知事選挙の直前になってから新聞で報じられ明るみになった。
大阪府・大阪市における二重行政・二重投資を解消するために、太田は2000年に、大阪府・市を合併させる「大阪都構想」を主張した。これに対し、大阪市の磯村隆文市長(当時)は反発し、逆に市の権限を強める「スーパー政令市構想」を主張した。その後、大阪府は2004年に発表した『大阪都市圏にふさわしい地方自治制度』の中で、「大阪新都」構想を主張した。これは、政令指定都市としての大阪市は残すが、大阪府を廃止して「大阪新都機構」という広域連合に再編する。新都機構には評議員会を設置し、府下の政令市や各市町村が広域行政の意思決定に参加する。新都機構は国から権限や財源の移譲を受け、新都全域にまたがる都市基盤の整備事業などを行う一方、市町村は大阪府から権限を譲り受け、基礎自治体として住民サービスを行うといった内容だった。これらの提案はいずれも、太田の在任中には実現に結びつかなかったが、大阪都構想そのものは、後任の府知事である橋下徹ならびに自民党府議会議員だった浅田均・松井一郎が立ち上げた大阪維新の会に受け継がれた。
宗教法人霊友会の支援を受けている。
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