太田哲也の出身高校
太田哲也 スポーツ選手
- 太田哲也卒業高校
- 日本大学第二高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 345位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1959年11月6日生まれ
太田 哲也(おおた てつや、1959年11月6日 - )は、日本のモータージャーナリスト・元レーシングドライバー。
群馬県前橋市出身。日本大学第二高等学校、武蔵大学卒業。東京都世田谷区梅丘在住。
1982年にレースデビュー。その後、当時レーシングチームを経営していたチェッカーモータースの兼子眞に見出され、富士グランチャンピオンレースなどに参戦。1987年からは全日本F3000選手権に出場。1989年にはマツダとワークス契約を結び、全日本F3000に加えて全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)などにも出場する。1990年には篤子夫人と結婚。1991年、マツダとのワークス契約終了。
1993年から1996年までル・マン24時間レースにイギリス・シンプソンチームからフェラーリ・348LMで出場。日本人ではじめてのル・マンでのフェラーリドライバーとなった。1995年からはフェラーリの準ワークスチーム的存在のフェラーリ・クラブ・イタリア・チームからフェラーリ・F40GTEで出場。これによるフェラーリ社との関係により、日本国内で開催されるフェラーリのワンメイクレース「フェラーリ・チャレンジレース」の講師や、全日本GT選手権に参戦するフェラーリ・F40のドライバーを務めることとなった。
1993年から「ティーポ」(ネコ・パブリッシング)を初めとする自動車雑誌への寄稿を開始、1995年からは日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員となるなど、モータージャーナリストとしても活動した。
1997年フェラーリインポーターの「コーンズ」とフェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン支援の下、チーム・フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの代表に指名され、フェラーリF355GTを新規に自社製作、自らもステアリングを握り、全日本GT選手権GT300に参戦。初戦は最後尾からのスタートだったが、最後のオールスター戦で優勝した。 翌1998年5月、富士スピードウェイで開催された全日本GT選手権第2戦での事故で瀕死の重傷を負うが、その後の3年間の懸命のリハビリにより社会復帰した。(詳細後述)
事故から復帰までを綴った「クラッシュ」「リバース」(幻冬舎)がスポーツドキュメントとしては異例のベストセラーに。その後、高校生に向けた「生き方ナビ」、「世界でいちばん乗りたい車」「知識ゼロからの車選び」を執筆。 著書「クラッシュ」は奥山和由によってドキュメンタリー映画化され、自身も出演。
現在は事故の後遺症による手足の機能障害の為に、プロのレーシングドライバーとしてのキャリアを絶たれてしまったが、エッセイや自動車雑誌のインプレッション記事等の執筆活動の他、モータージャーナリストとしての活動、"TEZZO"ブランドでアルファロメオやフェラーリ等のチューニングパーツの企画開発、そして40代以上のアマチュアドライバーにレース出場の機会を与える"TEZZO RACERS CLUB"の主宰、落ち込んで苦悩している人を支援しチャレンジを促す「NPO KEEP ON RACING」の主宰など、事故以前よりも精力的に活動している。
また自身の事故での経験を基にした「チャレンジ」をテーマに、講演活動を学校、病院関係、企業などからの依頼で行う他、 朝日小学生新聞と連動した「太田哲也小学校出張授業」も行っている。
事故は1998年5月3日、全日本GT選手権第2戦中、富士スピードウェイで起きた。天候は雨であった。決勝レース開始時のフォーメーションラップにおいて、ペースカーが先導して隊列を整えスタートするローリングスタートの一周目で、先導するペースカーが最終コーナーから突然加速し、通常より速い約160km/hで走行したため隊列が整わなくなった。また路面状況が悪い為、二周周回させて路面をクリアにしようとした。また太田が寄稿していた自動車雑誌「Tipo」誌が特集を組んで事故原因を究明した際、事故後にそれぞれのクラスの上位チームからデータ提供の協力を受け提供されたマシンのデータロガーに記録されたデータを検証したところ、最終コーナーから異常な加速をしていたという事実が判明している。その結果レース車両が巻き上げた水幕により視界は「ほとんどゼロ」(自身の証言)という最悪の状況で、後方を走行するGT300クラスのマシン数台がレースのスタートと誤認し加速した。その後、状況を把握した数台が減速したところへ加速してきた更に後方のマシンが衝突、数台を巻き込む多重事故となった。
その中で、太田の前方を走っていた砂子智彦のポルシェが前方の車輌に追突し、パーツを撒き散らしながら進行方向左側、コース外のエスケープゾーンに放り出され、右を向いた姿勢で停止する。追突したポルシェはピットロード出口付近のガードレールに衝突して停止した。その直後、突然視界が開けた際に急減速して来た前方の車両への追突を避ける為に同ゾーンへ逃げた太田の車輌(TFCJフェラーリF355GT)が衝突した。太田の証言では正面衝突を避ける為に、あえてスピンさせ、助手席側から衝突させ衝突のダメージを出来る限り回避させる行動を取ったという。スタート前のためガソリンが満載されていた太田の車輌は爆発・炎上、衝突の弾みによりコース脇のコンクリート壁に弾かれた後、スピンしながらホームストレートを跨ぎ、激しく炎上しながらピットロード出口から200m程先の地点で後ろ向きに停止した。爆発炎上の原因は、衝突の際にポルシェ、フェラーリ共々フロント側に設置されているガソリンタンクが押し潰され、噴出したガソリンが衝突時に生じた火花か何かに引火して爆発したものとみられている。
事故直後、衝突相手であるポルシェの炎上は比較的小規模であり同車の砂子は自力で脱出して救急車で搬送された一方(全身打撲、右足の粉砕・開放骨折等で暫くレース活動を中止するほどの重傷だったが)で、太田は車内まで火が回り激しく炎上し続けるマシンの中に90秒近く取り残された。消火と救助を開始したのは、炎上する太田車の脇を通過した後に駆けつけたRE雨宮所属(当時)のドライバー山路慎一であった。その後現場に到着し、太田の搬送に用いられたのは救急車ではなく、富士スピードウェイの機材車(商業用バン)であった。そのあまりの対応の遅さとずさんさに激怒した山路はその場でレスキューカーのフェンダーに蹴りを入れている。
レスキューカーはフォーメーション・ラップ中、最後尾につけていたが、スロ-ダウン車両がいたために到着が遅れた。また、コントロール・センター脇からは消火車、救急車、破壊工作車が出動し、このうち消火車、救急車は910ポルシェへ、破壊工作車がフェラーリへと向かったが、現場到着は1分53秒後となった。また、現場にいち早く駆けつけてしかるべきポストのオフィシャルの動きだが、1番ポストのオフィシャルは910ポルシェの現場へ行っており、風向きや視界の関係からもっとも状況を把握できているであろう2番ポストのオフィシャルは、初期段階では誰もフェラーリに向かっていなかった(1分40秒後到着)。さらに、現場に行くのにコースを横断する必要がなく、最も早く到着できそうだったピットロードのオフィシャルも、消火が終わってから到着した(丁度1分後到着)。
出火から30秒で現場到着、消火、救出を済ませなければ、ドライバーの生命は非常に危険な状態におかれる。したがって、フェラーリが炎に包まれてから最初にオフィシャルが到着するまで1分10秒という時間は、もし山路が救援に駆けつけて消火活動を開始していなければ、太田の生命が危ぶまれる長さであると考えられる。また、多重クラッシュとはいえ、計3台うち2台炎上の事故でレスキュー体制が混乱したと言える。
さらにこの時、サーキット側は「火傷は負っているが生命に支障は無い」と虚偽の報告を病院等に対して行った他、本人がレーシングスーツの下に着用する難燃素材で作られたアンダーウェアを着用していなかった等の虚偽報告を行った。実際には事故当日は着用していた事が確認されている上に、フェイスマスクが収容されたメディカルセンターの前に捨てられており、チーム関係者が回収している。さらに、ペースカーのドライバーは「正規のローリングスタートの速度を遵守し、そんなスピードは出していない」と虚偽の発言を行っていた。前述の「Tipo」誌が提供を受けたデータロガーのデータがそれを否定した形となったが、競技長及びサーキット側はその事実を頑として認めることは無かった。これは後の裁判の争点の一つともなった。
この事故当時の観客が撮影していた映像は、事故後に「オートスポーツ」(三栄書房、当時は隔週刊)の編集部に送られ(後に「Tipo」編集部にも送られた)、各誌紙面を割いて事故の検証記事等が掲載された。また映像証拠として後述する訴訟の際に状況証拠として使用された他、映画「クラッシュ」のシーンにも使用されている。この映像はYouTubeやGoogle Videoにもアップロードされている。
受傷程度は全身の熱傷による重体であったが、治療とリハビリの後、2003年にはアルファ・ロメオのワンメイクレースである「アルファチャレンジカップ・ユーロカップ」でレースに復帰した。もちろん復帰までは肉体的、精神的にも(PTSD等)様々な苦しみがあり、何度もリハビリを挫折しかかった。また、事故後初めて鏡で自分の顔を見た際そのあまりの酷さに衝撃を受け、自殺すら試みたという。
2001年には、1998年のクラッシュからリハビリ・再起に至るまでの過程をまとめた自叙伝とでも言うべき作品『クラッシュ-絶望を希望に変える瞬間』(幻冬舎)を出版。同作品は2003年に映画化された(映画は奥山和由がプロデューサーを務めたことでも話題になった)。同年には『クラッシュ』の続編に当たる『リバース(Re-Birth)- 魂の還る場所』(幻冬舎)も出版されている。
また、重度熱傷による後遺症によって右手足に機能障害が残った為、プロのレーシングドライバーとしては引退をせざるを得なくなった。アマチュアレーサーとして参加する際は、右足首の動きをアシストする為に、膝に巻いたベルトとシューズの足の甲をシリコンチューブで繋いで、足首の動きをアシストしている。
現在は既述の通り、執筆や講演活動、自動車のチューニングパーツ開発等と、事故以前よりも精力的に活動している。
大雨の中ペースカーが必要以上に高い速度で走行した事(事故後、Tipo誌が予選上位のチームからデータ提供の協力を得てデータロガーの速度記録を調べた所、最終コーナーで150km/hまで加速していた事が判明している)や、衝突による火災発生後救護班が到着するまでに非常に時間がかかった事、さらにその後の処置体制の不備など、レース主催者の対応に不手際があったとして、太田とその弁護団は1999年11月、レース主催者(富士スピードウェイ、テレビ東京他)やレースを公認した日本自動車連盟(JAF)に対し約2億9,000万円の損害賠償請求をする民事訴訟を起こした。
これは、レース参加者が主催者側の不備について損害賠償を求めるという、過去にあまり例のない裁判として注目を集めた。裁判中では、通常レース参加に当たってドライバーが主催者に対して事前に提出(該当のレースにおける太田も同様)する「主催者や他の競技者らの責任を追及したり損害賠償を請求したりしない」という誓約書の有効性が争点の一つとなった。
2003年10月、東京地方裁判所は原告側の主張をほぼ認め、JAFを除く主催者に対し約9,000万円の損害賠償を支払うよう命じる決定をした。前記の誓約書の有効性については、「当該誓約書の内容は著しく不当・不公平で公序良俗に反するため無効」と判断された。(公認機構であるJAFに対しては責任関係が認められないとの事で請求は棄却された)被告であった主催者側は判決を不服として東京高等裁判所に控訴したが、2005年7月、主催側とテレビ局などが安全対策を怠ったとして1審の東京地裁判決の支払い命令の9,000万円を支払う事で和解が成立した。
この裁判を起こすにあたっては、応援する声があったのは勿論であるが、ジャーナリストやレース関係者等の間から反対する声が多く、相当風当たりが強かったという。そのため、一時は仕事も殆ど無く、孤独感に苛まれたといわれている。
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