大竹洋平の出身高校
大竹洋平 サッカー選手
- 大竹洋平卒業高校
- 八潮高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- サッカー選手ランキング
- 1741位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1989年5月2日生まれ
大竹 洋平(おおたけ ようへい、1989年5月2日 - )は、埼玉県八潮市出身のサッカー選手。Jリーグ・湘南ベルマーレに所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)及びフォワード (FW)。
3歳でサッカーを始める。小学生の頃から中村俊輔のプレーを研究し、同選手に似たプレースタイルやキックフォームを見せるようになる。関東トレセンに選出された際にFC東京から評価され、2002年から同クラブの下部組織に入った。当時は全てのPKを任されていた。2007年のJリーグユース選手権大会では5得点を挙げ、攻撃の起点としてチームの優勝に貢献した。同期には椋原健太、廣永遼太郎、丸山祐市、田端信成、岡田翔平、田中奏一、宮阪政樹、井澤惇、加藤淳也など。
2008年、椋原、廣永と共にトップチームに昇格。積極的に好機を演出してアピールに成功し、同年3月8日の開幕戦神戸戦(自身の高校卒業式当日)でプロデビュー。4月19日のJ1第7節川崎戦においてプロ初得点をループシュートで決めると、同月21日、U-23日本代表候補に追加招集され、反町康治オリンピック代表監督から「ゲームの流れを変えられる選手。たぐいまれな個性がある」と評されるなど注目を集めた。以後、オフ・ザ・ボールの動きを試行錯誤し苦しんだものの、J1第24節大宮戦でフリーキックでの得点を決めるなど、チーム3位タイの4得点を挙げ存在感を示した。
2009年、クラブ首脳陣からの厚い期待を受けて4年契約を締結し、背番号もリオネル・メッシに因んで「30」から「19」へ変更。しかし同年は対戦相手に得意の左足が封じられると、城福浩監督からも「さらなる成長がないと、この壁は越えられない」と厳しい評価を下され、出場機会が激減。得点も3月29日のナビスコカップ予選リーグ第2節・神戸戦での1得点にとどまった。また、この年からJリーグ選手協会(日本プロサッカー選手会)の副支部長を務めている。
2010年、5月22日のナビスコカップ予選リーグ第3節新潟戦で14か月ぶりとなる得点を決める。相手GKのタイミングをずらしてのシュートに、城福監督から「指導者が指導できない発想で点を取ってくれた」と称えられた。同年9月のJ1第24節からは城福に替わり大熊清監督が指揮を執ったが、怪我人の復帰に伴うメンバー再編や、FWのリカルジーニョが大竹と同じ攻撃的MFにポジションを変えたことなどから、大熊就任以降のリーグ戦での出場は3試合にとどまった。しかし、控え組主体で臨んだ天皇杯4回戦千葉戦では2得点の活躍。「最後まで(フル出場しても)運動量が落ちなかった」「自分に自信をもってプレーできている」と成長を実感。大熊は2011年の指揮を執るにあたって「狭いところでパスを出せる田邉草民と大竹洋平をホントに鍛え、戦力にしたい」と名指して期待を示したが、田邉が出場機会を増やす一方で大竹は途中出場が続いた。
2011年8月、攻撃的MF補強を急務としていたセレッソ大阪へ期限付き移籍。レヴィー・クルピ監督からはキープ力や組み立て、シュート、ゴール前への飛び込みなどで高評価を受けており、自身初出場となったAFCチャンピオンズリーグでは鮮やかな連携を見せたものの出場機会は乏しく、シーズン終了をもってFC東京へ復帰。
2012年も控えからのスタートとなったが、バイタルエリアで違いを作れる選手として4月17日のACL・北京国安戦で先発出場の機会を掴み、1得点を挙げる活躍を見せた。主力として定着しつつあったが、同月末の練習中に負傷。後に左前十字靱帯及び左膝内側半月板の損傷と診断され戦線から離脱。2013年夏場にかけて復調しつつあった。
2013年8月にリーグ戦ベンチ入りを果たし、同月、中学生時に関東トレセンで指導を受けたチョウ・キジェが率いる湘南ベルマーレへ期限付き移籍。高い技術を発揮して早々にチームにフィット。相手の隙を突く巧みなパスやプレースキックで決定機を演出し、攻撃を勢い付けた。同年11月の練習試合中に右膝前十字靭帯を断裂し長期離脱を強いられた。2014年より湘南へ完全移籍。同年8月、J2第27節栃木戦で復帰。2015年はシャドーの位置から攻撃の起点となり、味方の走力を活かした。
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