大田阿斗里の出身高校
大田阿斗里 プロ野球選手
- 大田阿斗里卒業高校
- 帝京高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- プロ野球選手ランキング
- 1842位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1989年8月12日生まれ
大田 阿斗里(おおた あとり、1989年8月12日 - )は、沖縄県中頭郡西原町出身のプロ野球選手(投手)。現在はフリーエージェント。
2012年までは、名前の「阿斗里」を登録名に用いていた。
3歳まで沖縄で暮らした後に東京へ転居する。小3で江戸川区軟式野球連盟・仲町ビックフィガースで外野手として軟式野球を始め、小5で投手に転向。小6時に江戸川区選抜として世界大会に出場する。
帝京高等学校へ進学し、1年夏からベンチ入りする。2年夏から3季連続で甲子園に出場する。2年夏8強、2007年春のセンバツでは小城打線を相手に、江川卓と並ぶ大会史上2位タイとなる20奪三振の活躍、4強入りに貢献する。しかし、二回戦の市川戦でバントを試みた際に親指を負傷。痛みからフォームが崩れ、夏の東東京大会でも何度もノックアウトされた。酷い時には1アウトも取れない事もあった。最後の夏の甲子園ではこの不調が響き、エースナンバー背番号1は同僚の垣ヶ原達也に奪われ、背番号10を付けての出場となった(チームは8強進出)。この甲子園では2/3イニングしか投げられなかった。
高校時代には、卒業後に直接日本プロ野球の球団へ入ることを希望していた。しかし、3年生の夏に不調だったことから、「入団できなかった場合はアメリカへ行ってメジャーリーグを目指すかもしれない」という意向を周囲に漏らしていた。実際には、2007年の高校生ドラフト会議で横浜ベイスターズから3巡目指名を受けたことから、契約金5000万円・年俸500万円(金額は推定)という条件で入団。入団後には、名前の「阿斗里」を登録名に用いることを発表した。
2008年はシーズン終盤に一軍で中継ぎとしてプロ初登板を果たした。その後先発でも起用されたが、目立った結果は残すことが出来なかった。
2009年は8月13日に一軍登録、その翌日にリリーフ登板したのが唯一の一軍登板となった。
2010年は先発・リリーフの併用で自己最多となる16試合に登板した。結果は0勝7敗と初勝利を挙げることはできなかったものの契約更改では先発とリリーフをできる器用さが評価され120万円増で契約した。2011年、2012年はそれぞれ3試合、2試合の登板に終わり、2012年12月27日に登録名を本名の「大田阿斗里」に変更することが発表された。
2013年はセ・パ交流戦に入った5月18日にリリーフとして一軍昇格。故障で離脱していた山口俊の復帰に伴いいったん抹消されるが6月12日に再登録され、再登録2試合目となった6月22日の阪神タイガース戦で1点リードの5回表2アウト満塁から2番手として登板。藤井彰人を遊ゴロに打ち取りピンチを切り抜けると続く6回も無失点に抑えて降板した。チームがそのまま勝利したことから6年目にしてプロ初勝利を挙げ、成田啓二と松崎伸吾(11連敗)に次ぐ歴代3位だったプロ入り未勝利連敗記録を10で止めた。試合後にはプロ初のお立ち台にも上り、緊張した面持ちで「今日からやっとプロ野球選手になれたと思う」と話した。
2014年は4月22日に一軍登録。3試合に登板し、4月30日に二軍に降格。以降シーズン終盤まで一軍での登板が無かった。
2015年は一軍公式戦への登板機会はなく、10月4日に球団から戦力外通告を受けた。
11月10日に、シートバッティング形式のNPB12球団合同トライアウト(草薙球場)へ参加。ストレートで149km/hを計測したほか、2つの三振を奪うなど、打者3人を無安打に抑えた。
その一方で、高校時代にメジャーリーグ志向を公言していたこと(前述)を背景に、2015年の11月中旬には同リーグ加盟球団のトライアウトも相次いで受験。ボストン・レッドソックスのトライアウトでは合格に至らなかったが、サンディエゴ・パドレスが日本国内で初開催したトライアウト(同月22日・高知東部球場)にも参加。この結果を受けて、パドレスとマイナー契約を結ぶことに合意したことが同月下旬に報じられた。
平均球速約143km/h。最速151km/hのストレートとスライダー、チェンジアップ、フォークボールを持ち球とする。
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