大橋秀行の出身高校

大橋秀行 スポーツ選手

大橋秀行卒業高校
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スポーツ選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1965年3月8日生まれ

大橋 秀行(おおはし ひでゆき、1965年3月8日 - )は、日本の元プロボクサー。神奈川県横浜市出身。現役時代はヨネクラボクシングジム所属。日本ジュニアフライ級(現・ライトフライ級)、WBC世界ミニマム級ならびにWBA世界同級王座を獲得した。現在は大橋ボクシングジム会長。2007年4月1日より東日本ボクシング協会会長、2010年4月1日にはこれと兼務する形で日本プロボクシング協会(JPBA)会長に就任している。2013年からは日本ボクシングコミッション(JBC)理事も務める。

兄の大橋克行もプロボクサーとして活躍した。山際淳司の「逃げろ、ボクサー」のモデルとして知られる。

保土ヶ谷中学時代から地元の協栄河合ジム(現・オーキッド・カワイ・ボクシングジム)に所属し、学歴は横浜高等学校(海藤晃の指導を受け、2年生でインターハイ・モスキート級制覇)〜専修大学中退(1年生でロス五輪予選を兼ねた全日本選手権出場も黒岩守に敗れ五輪を逃す)。宅地建物取引士。「ライト級に匹敵する」と言われた強打が武器で、特にボディブローは絶大な威力を誇っていた。ミニマム級・ライトフライ級で活躍し、1990年にWBC世界ミニマム級王者、1992年にWBA世界同級王者となった。その一方で張正九、リカルド・ロペスなど、その当時に最強を謳われた強豪を日本に招聘して世界戦を行った試合の方がボクシングファンには印象深いボクサーである。

引退後はテレビ朝日「エキサイトボクシング」解説者を経て、現在は「大橋ボクシングジム」の会長。4人の世界王者(川嶋勝重=WBCスーパーフライ級、八重樫東=WBAミニマム級・WBCフライ級、宮尾綾香=WBA女子ライトミニマム級、井上尚弥=WBCライトフライ級・WBOスーパーフライ級)を輩出している。2007年1月3日開催の「ボクシング・グランプリ2007」にて日本代表の総監督を務めた。

東日本協会会長就任後、日本プロボクシング改革路線を掲げ、積極的に動いている。女子の解禁やスーパーミドル級以上のランキング創設(このうちヘビー級のみ復活)などをボクシング界に働きかけ、実現に至らせた。日本協会会長就任に当たり、「プロボクシング・世界チャンピオン会」発足を提案。プロアマ問題の解決や「日本ボクシング殿堂」の実現へ向けての活動も行っている。

1985年2月12日、プロデビュー。キャッチフレーズは「150年に1人の天才(具志堅用高の100年に1人の天才を超えるという意味)」

1986年6月23日、6戦目で日本王座初挑戦。空位のライトフライ級王座を野島嘉章と争い、10回判定勝ち。王座獲得に成功(1度も防衛することなく王座返上)。

1986年12月14日、続く7戦目で世界初挑戦。敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九(韓国)に挑むが、5回TKO負けで王座獲得ならず。

1988年1月11日、日本王座再挑戦。ライトフライ級王者喜友名朝博に挑み、10回判定勝ち。1年半ぶりの王座返り咲きを果たす(1度も防衛することなく王座返上)。

1988年6月27日、世界再挑戦。後楽園ホールで張正九に再度挑む。3回、3度のダウンを奪われた直後、右の強打をアゴにクリーンヒットさせ、王者を大きくグラつかせたものの追撃及ばず。結局、その後4度のダウンを追加された末の8回TKO負けでまたしても世界王座獲得ならず。

1990年2月7日、階級を1つ下げ、ミニマム級での世界挑戦。後楽園ホールでWBC世界同級王者崔漸煥(韓国)に挑む。当時、日本ボクシング界は1988年11月13日に井岡弘樹がナパ・キャットワンチャイ(タイ)に敗れ、WBC世界ミニマム級王座から陥落して以降、世界王者不在の状態が続いており、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数も「21」にまで伸びていた。それだけに、「日本ボクシング界最後の切り札」としてこの日の大橋に懸けられた期待は非常に大きかった。試合は一進一退の攻防に終始。そして、迎えた9回、左のボディブローで王者からダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者に対し、さらなる追撃を浴びせ、最後は再び左のボディブローでダウンを奪い、そのまま10カウント。この瞬間、世界挑戦連続失敗記録にストップがかかり、日本ボクシング界に1年3か月ぶりの世界王者が誕生した。久しぶりの世界王者誕生に会場からは「万歳!」の声が何度も響き、当の本人も「自分が勝ったことよりも世界挑戦連続失敗記録にストップを掛けられたことが嬉しい」と喜びを爆発させた。

1990年6月8日、初防衛戦。井岡から王座を奪った元王者ナパと対戦し、ダウンを1度奪った末の12回判定勝ち。

1990年10月25日、2度目の防衛戦。アマ・プロ通じて66戦無敗のリカルド・ロペス(メキシコ)と対戦したが、4回と5回に計3度のダウンを奪われた末の5回TKO負け。8か月半で世界王座を手放した(なお、この日の大橋は38度台後半の高熱を出しており、体調不良の状態でリングに上がっていた)。

ロペス戦後、一時は引退も示唆したが、ロペスへの雪辱を期し、1991年に再起。

ロペスとの再戦は実現しなかったものの、1992年10月14日、ロペス戦以来2年ぶりの世界戦。両国国技館でWBA世界ミニマム級王者崔煕庸(韓国)に挑む。ロペス同様、無敗の王者と積極果敢に打ち合い、12回判定勝ち。世界王座返り咲きを果たした。

1993年2月10日、初防衛戦。東京体育館で無敗の指名挑戦者チャナ・ポーパオイン(タイ)と対戦するも、12回判定負けを喫し王座陥落。試合後、一時は現役続行の意思を示すも、その後眼疾が発覚し、最終的には引退を決断。

初の世界王座獲得から4年後の1994年2月7日に引退表明とジム開設の記者会見を行った。

1990年2月7日 - 1990年10月25日

1992年10月14日 - 1993年2月10日

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