大後栄治の出身高校
大後栄治 スポーツ選手
- 大後栄治卒業高校
- 日体荏原高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
- スポーツ選手ランキング
- 1935位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 1964年11月21日生まれ
大後 栄治(だいご えいじ、1964年11月21日 - )は、日本の陸上競技指導者、神奈川大学人間科学部教授。陸上競技部監督、及び関東学生陸上競技連盟駅伝対策委員長も兼ね、箱根駅伝優勝2回の実績を持つ。
東京都出身。日体荏原高等学校から日本体育大学に入学した大後も、箱根駅伝出場を夢見ていた選手だった。しかし故障もあって満足に走れず、他の多くの選手と共に埋もれていた。そんな中2年生になって上級生の助言もあってマネージャーに転向。大後と入れ替わりに卒業した谷口浩美、大塚正美の時代からチームは監督、コーチが不在という状況が続いていた。その為、普通なら監督やコーチ、部長などがやるような部の運営そのものを学生がやることになっていた。しかし高校時代も指導者不在を味わっている大後は臆せずにマネージャーとしての階段を上っていく。4年時にはキャプテンと共に長距離ブロックの両輪として部の運営の矢面に立つ活躍。年末の箱根駅伝記者会見では並みいる各校の年配の指導者に混じって学生服姿の大後がマイクを握った。しかし学生主体ゆえの詰めの甘さもあって、遂に箱根駅伝優勝を在学中に叶えることは出来なかった。
これがきっかけで大後は指導者としての道を描くようになる。卒業間際に行われた大学院2次募集に挑み、見事に合格する。大学院時代はそれまでとは違い、「色々な人と話ができたり、リラックスしながら次の道を探る為の充電期間だった」と後に大後は語っている。
1989年長距離専任の指導者を探していた神奈川大学にコーチとして採用される。しかし当時の神奈川大学は既に箱根駅伝から15年遠ざかっており、部員達にも覇気が感じられなかった。引き締まった空気は感じられず、遊ぶために夜中にアルバイトをしているような部員さえいた。中でも部員一人一人と面談した時に「本気で箱根駅伝を目指そうとするなら、神奈川大学なんか選んでいません」と答えた部員もおり、強い日体大というなかに身を置いてきた大後にとってはカルチャーショックだった。
しかし大後はじっくり部の改革に乗り出す。練習環境の改善の為にアパート1棟を買い取って部員寮にすることで、選手の食生活の安定を図った。また大学から離れた専用グランドに向かう為に大型バスを購入し、自らも忙しい合間を縫って大型自動車免許を取る努力も惜しまなかった。
走力面でも最初は「(当時高校最強だった)西脇工業よりも弱い」と言われるほど、力がなく日体大時代のようなスピード練習は難しいと判断。とにかく長い距離をジョギングする練習を重ねることで、箱根駅伝を見据えた20キロへの適応力を高めていった。大後と同期に入学してきた部員らがこれらの練習に適応し、チームの力を高めていったことも幸いし、予選会の順位も通過ラインに近い位置まで上がってきた。これで部員たちの間に「(どうせ出られもしない箱根駅伝に)出られるかもしれない」という空気が広がっていった。またこの頃からライバル校の中から「神奈川大学は5000mだと弱いのに、20キロだとなぜかあんなに強く走る」という評価が広まっていった。
そして1991年秋の予選会で神奈川大学は選手達が着実に走り、明治大学、東洋大学といった常連校を退け、実に18年振りの箱根駅伝出場を勝ち取った。そして挑んだ1992年68回大会は14位に終わったが翌年には5区で小田典彦が大学史上初の区間賞を獲得するなど、8位とシード権を獲得。更に7位、6位と順位が上向きになる。そして1995年はそれまで2強とされていた早稲田大学、山梨学院大学の『早山時代』が終わりを告げ、神奈川大学、中央大学を加えて4強と評された。同年秋は出雲駅伝、全日本大学駅伝で最終区の途中までトップに位置するなど、前哨戦でも好調だったことから、箱根駅伝でも期待が高まる。そして迎えた1996年72回大会では1区で出遅れたものの2区3区で順位を上げて、4区に襷を受けた時点で2位となる。ところが、4区で高嶋康二が足を疲労骨折し、途中棄権(山梨学院も同区間で途中棄権)に終わる。優勝候補2校が往路で消える波乱の中、骨折で走れなくなった4区走者を抱きとめつつ、大後は5区の走者を心配していた。
途中棄権になればチームの記録は認められない。それゆえに選手達の緊張の糸が切れてしまわないかが心配だったのだ。しかし5区の近藤重勝は区間2位の力走でゴール。これが選手達に「途中棄権していなかったら優勝したと思わせる走りをしよう」と逆に燃えさせるきっかけを作り、復路でも7区で渡邉聰が、9区で重田眞孝が区間賞を獲得し、復路2位で力を見せた(現在では途中棄権以降の記録は個人記録も、復路記録も参考扱いとなり、公式記録としては認められない)。
この教訓からチーム全体にけが予防への意識も高まり、チームの力も更に上がっていった。秋の全日本大学駅伝を優勝して臨んだ神奈川大学は1997年73回大会で悲願の初優勝を果たす。例年にない往路の強風下、スタミナ型の選手の多いこのチームには幸いした。翌年も連覇を果たし、強豪校の仲間入りを果たす。
選手全体の実力が金太郎飴のように拮抗しているのがこのチームの特色だったが、大後が監督に就任したものの3連覇を阻止され3位に甘んじた1999年頃から次第に成績が下降し始める。2002年78回大会こそ往路優勝したものの復路11位で総合6位。そして翌年にはアンカーが5人抜かれを喫してまさかの11位に沈み、7年ぶりのシード落ちとなってしまう。この頃から大後も「練習をエース用と(山などの)特殊区間用に細分化していかねばならない」と悟り、練習の改革に打って出た。しかし、長年低迷していた明治大学、青山学院大学が復活し、城西大学、上武大学といった新たな勢力が台頭するなど、年々各校の戦力が拮抗している上、近年では優勝タイムが11時間を切るなど駅伝の超高速化が顕著となっており、スーパーエースを擁さないこともあって2006年82回大会では過去最低の16位に沈み、2010年86回大会では19年ぶりの予選落ちとなってしまい、2006年以来優勝争いどころかシード権すら獲得出来ない状況が続き、現在も泥沼から抜けられないでいる。「勝った後の難しさを今味わっている。だからこそもう一度頂点を得たい」と、大後はまだ夢を捨ててはいない。
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