多田文久三の出身高校

多田文久三 プロ野球選手

多田文久三卒業高校
高松商業高校 偏差値 香川県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
1123位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1921年7月8日生まれ

多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 2006年9月1日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手。

高松商業では当初捕手であったが、上級生になると強肩を見込まれて投手にコンバートされた。また、2年生の1939年に春・夏の甲子園に連続出場、夏はベスト8まで進出。3年生の1940年にも春の甲子園でベスト8まで進んでいる。

1941年に投手として東京巨人軍に入団。翌1942年の途中に捕手兼任となり、1943年には高校の1年後輩であった楠安夫の応召を受けて正捕手となる。本職が捕手ではなかったために、盗塁を刺すときの送球の加減ができず遊撃手白石敏男のグラブが送球の勢いに負けて後退してしまい走者にタッチできずに盗塁を許してしまったり、4月には1試合に2度の打撃妨害、2度のファールフライ落球を経験している。同年11月に応召され姫路三八連隊に入隊。

戦後に職業野球が再開されると、早速1945年の東西対抗戦に選ばれ東軍の第一捕手として出場する。1946年に再び巨人に入団し現役復帰を果たすと、再び正捕手となって全試合に出場する。しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。川崎徳次(24勝)に次ぐ12勝、防御率2.36(リーグ13位)の成績を残す。活躍のきっかけについて、投球時に身体が開き球離れが早くなってしまうことについて、偶然列車に乗り合わせた新田恭一に相談したところ、右足の踵に体重を乗せるべきとのアドバイスを受け、実践したところ球持ちが長くなり低めへの制球が非常に改善されたという。その後1950年まで主戦投手として4年連続二桁勝利を挙げ、1949年は防御率3.34(リーグ9位)、1950年は防御率2.91(リーグ5位)と2年連続して防御率ベスト10位に入った。

肩を痛め1951年以降出場機会が減少する。しかし、同年の南海との日本シリーズにあたって、投手も捕手も経験がありチーム全般を観察できるとして、多田は先乗りスコアラーとして対戦する南海の試合を偵察。柚木・江藤・中原らエース級投手の配球や投球時の癖、山本・蔭山・木塚・飯田ら百万ドル内野陣の盗塁時のタイミングの取り方などを記載した「多田メモ」を作成する。巨人は日本シリーズでの南海の盗塁を僅か5個に抑えるなど、このメモが巨人の日本一達成に大いに役立ったという。

1954年に芥田武夫監督に豊富なキャリアを買われて近鉄パールスに移籍し、同年は原勝彦と交互にマスクを被って捕手として81試合に出場するが、翌1955年に引退。

引退後は1958年に加藤久幸監督の下で近鉄の一軍投手コーチを、1961年から1966年までは高松商業の先輩にあたる水原茂監督の下で東映フライヤーズの一軍投手コーチを務めた。東映では怪童・尾崎行雄を1年目から中心投手に育て、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。その後も手腕を発揮し、石川陽造・嵯峨健四郎・田中調・永易将之・宮崎昭二・森安敏明を主戦投手に育てている。その後、1968年から2年間パ・リーグ審判員を務め、1970年に横浜市の橋本フォーミング工業に就職した。

遠投105m手榴弾投げ85mの強肩で、左足を高く上げて真っ向から投げ下ろす速球と、落差の大きいドロップを武器とした。但し、スタミナに欠け、試合終盤に息切れすることが多かった。

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