増田次郎の出身高校
増田次郎 弁護士
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- 性別
- 男性
増田 次郎(ますだ じろう、慶応4年2月26日(1868年3月19日) - 1951年(昭和26年)1月14日)は、明治末期から大正、昭和初期にかけて活動した日本の実業家、政治家。
駿河国(現・静岡県)出身。後藤新平秘書官から衆議院議員となり、さらに実業界に転じて電気事業に参加。大同電力社長、日本発送電(日発)初代総裁、台湾電力(台電)社長などを務めた。
増田次郎は慶応4年2月26日(明治元年、新暦:1868年3月19日)、駿河国志太郡稲川村(現・静岡県藤枝市)に、増田儀右衛門の次男として生まれた。生家は120俵あまりの収穫がある比較的裕福な農家で、父儀右衛門は戸長に選ばれる村の有力者であった。
小学校を出た後、世継ぎであり体の丈夫な兄太郎に農業を継がせるので次郎は商人になるのがよい、という父の意向で、13歳のとき丁稚奉公に出され、六合村にあった親類の商家に預けられた。しかし父が事業に失敗したので16歳のとき実家へ戻され、農作業に従事する。父は再起を図るものの失敗続きで、次郎が20歳のとき伝来の家屋敷を手放さざるを得なくなった。それでも父は次郎に東京で学問をするよう勧めるので、次郎は上京して東洋英和学校、次いで有得館に入り、語学を学んだ。
東京には1年余り滞在したが、父儀右衛門が病気になったので急遽帰郷。看病に努めたが父は翌1890年(明治23年)11月に死去する[7]。兄が既に死去していたため家を継ぎ、家族とともに静岡市に転居してここで親類の男とともに印刷所を買い取って開業した[8]。県議会の議事録や警察関係の印刷を引き受けており、県庁や警察方面に知人ができて仕事が順調に進むようになったが、1892年(明治25年)12月、市内の大火に巻き込まれて印刷所が全焼してしまう[8]。
印刷所を断念し静岡民友新聞の広告取りを始めたものの、印刷所時代の借金の返済に苦しみ、夜逃げを決意する[9]。印刷所の関係で顔なじみとなった県会議員に紹介してもらい、伊豆半島の松崎町にあった新婚の妻の縁者が経営する小料理屋へと落ち延びた[9]。小料理屋にて居候の身になり、買い出しや料理の手伝いをする傍ら、金がないので店の屋根裏に設けられていた賭場にも出入りし、賭場の手伝いもしたという[9]。
しばらく小料理屋生活を送っていたところ、1895年(明治28年)、松崎町に訪れた顔なじみの県会議員に仕事を紹介され、小学校に書記として勤め始めた[10]。その県会議員に今度は賀茂郡の郡長池田忠一を紹介され、1896年(明治29年)、下田町にあった賀茂郡郡役所に職を得た[11]。次いで翌1897年(明治30年)、沼津町に転任し、駿東郡郡役所の書記に登用される[12]。周囲の者に勧められて1898年(明治31年)に普通文官試験を受験して合格し、判任官となった[13]。
駿東郡郡役所では郡長岡本武輝に引き立てられたが、岡本が沼津から台湾へと転任する際、増田も台湾で一旗揚げてはどうかと同行するよう誘われた[14]。岡本の計らいにより増田は1899年(明治32年)7月、台湾樟脳局(後の台湾総督府専売局)へと赴任した[14]。
増田が台湾で勤めていた頃、台湾総督府民政長官は後藤新平であった(1898年より1906年まで)。末端の役人であった増田は民政長官と接する機会がなかったが、1902年(明治35年)に専売局長の祝辰巳に随行して上京する際、たまたま議会に出席するため後藤が同じ船に乗船していたので、祝の紹介で知遇を得ることができた[15]。その後後藤の秘書官が他に転ずることとなったので、祝らが後任秘書官として増田を推薦した結果、1905年(明治38年)4月、専売局属官から台湾総督府民政長官秘書官に抜擢された[15]。
1906年(明治39年)11月、後藤新平は台湾総督府から南満洲鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁へと転ずる。増田も後藤に随って満鉄へと移り、翌1907年(明治40年)2月には後藤の一行とともに満洲の大連市へ入った[16]。しばらく経った後神経衰弱となったので単身帰国して療養生活を送る[17]。1908年(明治41年)7月に第2次桂太郎内閣が成立し後藤が満鉄総裁から転じて逓信大臣兼内閣鉄道院総裁となると、増田は鉄道院総裁秘書に任ぜられた[18]。
1911年(明治44年)8月に桂内閣が総辞職し後藤も鉄道院総裁を退任する。一方増田は鉄道院に引き留められ、鉄道博物館掛となるものの、ほとんど出勤せず翌1912年(明治45年)1月に辞職が認められた[19]。
鉄道院を辞職した頃、台湾に製糖工場を建設すべく南日本製糖株式会社の設立が企画されており、これに誘われて1912年2月同社の常務取締役に就任した[20]。台湾に再度渡りしばらく苗栗に滞在するが[21]、時の首相桂太郎が後藤新平らと新党立憲同志会の創立を目論むと、1913年(大正2年)1月この創立幹事に選ばれた[22]。
桂の死後、後藤が同志会から離脱したので増田もそれに従って脱退し、しばらく浪人となる[23]。そうしているうちに遊んでいるのならばと声をかけられ、1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に立候補することとなった[24]。郷里静岡県から立候補して後藤らの後援で当選、衆議院議員となったが、増田本人曰く陣笠議員の一人に過ぎず特記するような議員活動はないという[25]。
1917年(大正6年)1月衆議院が解散され、第13回総選挙に臨んだが、加藤高明が後援する鈴木富士彌に敗れて落選した[26]。
議員となった頃、後藤新平から福澤桃介を紹介され、福澤の事務所を訪ねて面会した。これが増田の電気事業に関係するようになった契機である[27]。
福澤が関与していた企業の一つに、愛知県の電力会社名古屋電灯があった。福澤は1913年1月に同社常務取締役に就任して経営権を掌握し、翌1914年(大正3年)には社長となっていた[28]。名古屋電灯では以前から木曽川において水利権を獲得していたが、福澤が経営権を握ると木曽川開発を本格化させる[28]。そして木曽川全体の開発計画を取り纏め、1915年9月に逓信省へその許可を申請、10月には許可済みの取水量を増加するべく長野県当局へと申請を行った[28]。しかしこれらの申請が許可されるには、帝室林野管理局の了承を取り付ける必要があった[28]。木曽川上流域には帝室林野管理局が管理する木曽御料林があり、この御料林で伐採された木材の輸送を木曽川の河水を用いて行っていたためである[28]。
福澤は帝室林野管理局との問題を解決するにあたり、逓信大臣時代に臨時発電水力調査局を設置して全国の河川を調査させるなど水力開発に熱心であった後藤新平に支援を求めた[29]。後藤はこれを受け入れるとともに、手伝う人があった方が良いだろうということで増田次郎をその役に推薦した[29]。増田は福澤に面会するとすぐさま名古屋電灯の嘱託となり、帝室林野管理局との交渉を受け持つこととなった[27]。中央の大臣から地方の役人まで幅広く交渉を進めるにあたって、世故に長け性格は円満という交渉役に適材なことが買われての電力業界入りであったという[30]。
帝室林野管理局との交渉は、最終的に木材輸送の代替交通機関として森林鉄道を敷設し、その資金を電力会社側が出すという条件で纏まった[31]。御料材輸送の問題が解決して木曽川開発の見込みが立つと、名古屋電灯は開発部門を分離して1918年(大正7年)9月に新会社木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立する[32]。社長に福澤桃介、副社長に下出民義が就任し、増田も常務取締役に名を列ねた[33]。
木曽電気興業の設立後、関西地方への送電を目指して福澤とともに京阪電気鉄道の太田光熈らと交渉し話を纏め[34]、両社の合弁で1919年(大正8年)11月に大阪送電株式会社を設立した[35]。社長は福澤で、増田は4人の常務取締役の一人となった[35]。さらに1921年(大正10年)2月、この大阪送電と木曽電気興業に山本条太郎が社長を務める日本水力が加わって3社の合併により資本金1億円の大同電力株式会社が発足する[36]。社長は引き続き福澤桃介が務め、副社長には日本水力から宮崎敬介が就任、常務取締役には増田ら計5人が選任された[36]。
大同電力発足後、木曽川には読書発電所や大井発電所など大同電力の水力発電所が相次いで完成した。発電所群のうち1921年に着工、翌年に竣工した長野県の須原発電所では、資材運搬のため発電所前に架橋された木曽川のつり橋が増田にちなんで「満寿太橋」と名づけられた[37]。木曽川開発を進める大同電力にあって、増田は他の事業者や金融機関との間の対外交渉を担当する[38]。関東大震災後の国内の金融逼迫に際して外債募集の話が浮上し福澤がアメリカへ渡った際には留守役を務める[39]。第1回外債成立(1924年8月)後の1924年(大正13年)9月、増田は常務取締役から昇格し代表取締役副社長に就任した[40]。副社長に推薦されたのは成立した外債の券面に署名する役目を務めるためで、第2回外債の下準備も兼ねて同年11月に渡米[41]、翌年2月に帰国した[42]。
1928年(昭和3年)、福澤桃介から健康が優れず引退したいので自分の後を継いでもらえないかと依頼され、大同電力の2代目社長に就任することとなった[43]。そして同年6月、福澤の社長辞任とともに増田は後任の代表取締役社長に就任した[40]。増田は後年自叙伝にて、「大同電力の事業は全く福澤さんの天稟の才にあるもの」でそれに従って働きさえすれば良かったのであり、自分と交代するのは「金と真鍮を替えたようなものだろう」、と書いている[43]。
社長就任前後の1926年から1929年にかけて大同電力は営業の最盛期を迎えていたが[44]、翌1930年(昭和5年)以降は世界恐慌の影響が波及して収入が減退し、配当率を10%から順次引き下げざるを得なくなった[45]。さらに1931年(昭和6年)12月に金輸出が再禁止されて以降、急激な円安が進むにつれて外債の利払費および償還費が急騰し、不況による収入減と多額の為替差損という二重の圧迫により大同電力は深刻な経営難に陥った[46]。1933年(昭和8年)上期には膨大な為替差損に押されて無配に転落してしまう[47]。再建のため同社は1933年11月に会社更生計画を発表し、財務整理や未活動資産の活用を行うこととなった[48]。
4期2年間の無配を経て、経営の好転により1935年(昭和10年)上期より復配となった[49]。増田は後年自叙伝にて、大同電力の苦境について「前途は暗雲低迷、どうなることかと生きた心地もなかった」と述べ、業績の回復については「決して私の微力の致すところではない。福沢初代社長の余光と、先輩の後押し、従業員諸君の一致協力と、世間様の同情があったればこそである」と述べている[50]。
電気事業以外では、1936年(昭和10年)に日本精鉱の社長に就任し、中瀬鉱山(兵庫県)の開発に取り組んだ[51]。また事業の傍ら、1926年(大正15年)12月に司法保護団体「帝国更新会」の副会長に就任した[52]。同会は大審院検事の宮城長五郎を会長として設立された、起訴猶予者や執行猶予者を保護し更生を援助するための団体で、増田は人に誘われてこれに協力することとなった[53]。
1936年(昭和11年)に時の内閣が打ち出した電力国家管理の方針は日中戦争下で具体化され、1938年(昭和13年)4月、電力管理法ほか3法が公布されるに至った。電力の国家管理を担う国策会社日本発送電株式会社(日発)は翌1939年(昭和14年)4月1日付で設立されたが、これに先立つ1938年8月、大同電力は一部電力設備の出資命令を受けた[54]。この時点での出資範囲は主要火力発電設備および送電線のみで水力発電設備・配電設備は含まれていなかったが、出資を命令された設備は固定資産の4割を占めていた[54]。加えて、大同電力は電力供給の9割が他の電気事業者への卸売りであり、国家管理実施の上はその大部分が日発への卸売りとなって料金が低く抑えられる予定であったため、大同電力は営業の大部分を失い存続が困難となった[54]。政府から残余資産の出資を推奨されたこともあり、大同電力では1938年12月事業および資産・負債一切の日発への移譲を決定し、日発発足翌日の1939年4月2日付で解散した[54]。
日発設立の準備が進んでいた1930年代末には業界の長老とみなされていた増田は、電力国家管理案に当初反対していたものの、大同電力が全資産の日発への出資を決定した後は日発設立に協力する立場となった[55]。これらに加え、当時の内閣総理大臣平沼騏一郎や逓信大臣塩野季彦とも司法保護事業を通じて旧知の間柄であったため、日発の総裁職引き受けを依頼された[55]。1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足、増田を初代総裁に任命した[56]。
電力を低廉豊富に供給すると謳って発足した日発であったが、発足早々に近畿・中国地方での異常渇水に見舞われ水力発電が麻痺する事態に直面する[57]。これを補給する火力発電も石炭不足で機能不全となり、送電の休止まで至ったため近畿地方を中心に工業地帯の生産活動に支障を来す結果となった[57]。この事態の責任をとり、1941年(昭和16年)1月、増田は日発の総裁を辞任した[57]。後任には日本電力の池尾芳蔵が任命された[58]。
日発辞任後は小閑を得たが、1941年11月に台湾総督長谷川清に依頼されて台湾の電力会社台湾電力株式会社(台電)の社長に就任した[59]。12月、南日本製糖の常務として渡航して以来30年ぶりに台湾へ到着[60]。専任の社長として同社を経営し、大甲渓での電源開発や台湾島内の電力統合などに携わった[61]。1945年(昭和20年)1月、長谷川の台湾総督解任にあわせて社長を辞職し、台湾から引き上げた[62]。
第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)1月14日、東京都渋谷区上智町にて死去[63]。満82歳没。
増田は温和な人柄だというのが定評であった[64]。日発の総裁に就任した頃、次のような人物評が書かれた。
「後藤氏と言ひ、福澤氏と言ひ、二人ともその方面での変り者であった。その変り者に見込まれたと云ふのだから、一見少しも変ったところのない増田氏にも亦、どこか偉いところがあるに違ひない。増田氏は未だ曽て怒ったり、渋い顔をしたことはないと言はれて居る。いつも、春風駘蕩、どんな困難に直面しても平然として、自然の間にそれを乗り切って行く。所謂窮すれば通ずの教訓を体得した人と言へやう」
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